r a u  e r e i : 1


世界とはこんなににも広いのだ、と驚いた。

外は鮮やかな色に溢れていた。空の青色、木々の緑色、大地の茶色、花々の赤色、桃色、黄色、――――自然なままの、人工的ではありえない色。
今までは寝ても醒めても、この目でとらえていたのは冷たい氷の世界…白、または透明な冷たい背景ばかり。
もしくは、この…一緒に逃げ出した相手の瞳の色のみ。

「見て、シルバー!いい天気…空がとても青いわ」
空とはこんなににも広かっただろうか。太陽は、あんなににも優しい顔をしていたのだろうか…すっかり久しくて、忘れてしまっていたようだ。
「ねえさんの目の色と、同じ色だね」
「そうね… アタシの目の色。 久しぶりの、自然な色」
んー、と大きく背のびをする。ぽかぽかと暖かい、春のような陽気…(最も、季節など解らないのでそう感じただけだが。)
このまま眠ってしまいそうだ…何だかとても疲れた。
恐ろしいあの住処から逃げ出すために、少しでも、少しでも離れなければと一晩中走り続けたせい。…太陽はまるで二人を眠りへと誘うかのように、優しく照らしてくれている。

「ふぁ…何だか眠くなってきちゃった。シルバー、このまま寝ちゃわない?」
「ねえさん」
「うふふ、冗談よ冗談。 …これからどうする?シルバー」
どれくらいあの恐ろしい場所から離れたかは解らないが、あの男たちがもしかしたら追ってくるかもしれない。このまま自分たちを見逃してくれるかは解らない…。
これからどうするか? それは今の一番の課題だった。
「道は二つね。あの男にバレないように目立たないよう隠れて生きるか、それともいっそ覚悟を決めて普通に暮らしてしまうか」
「…違う、ねえさん。道はもう一つある」
「え?」
「復讐するんだ。あの男に…オレたちをさらい、修行を強制させていたあの男に…怒りの、牙を」

復讐。全く、その道を考えていなかったわけではない。だが…
「…本気?」
「本気だよ。あの男だけは許せないんだ…それに、あの男がオレたちを使って何をしようとしていたのか、突き止めたい」
ギラギラと輝くシルバーの銀の瞳。
怒りに震えるそれを見れば、弟の強い意思はもう変えられないであろうことはすぐに解った。
「…でも…良いの?シルバー、あんたの両親を探すことだって出来るのよ。過去を忘れて、両親の元に帰ることだって出来るのよ」
「過去に決着をつけたいんだ。両親の記憶だってないに等しいし…それに」

一旦言葉を区切って。

「このままじゃ気が済まない。…ねえさんを散々殴ったあの男を、せめて一発でも殴らないと気が済まない!」
瞬時、ブルーが目の前の愛しい弟を抱きしめたのは言うまでもない。



とはいっても、まずは世の中に慣れることが先決だった。いくらバトルの腕がたっても、今の自分たちは世間知らずのただの小さな子供…
死に物狂いで世の中の道理を学び、世情を理解する…もの珍しいことも多かったが、元々そういうことが得意なブルーにとっては至極簡単なことだった。
幼いながらにその美貌を自負していたブルーが猫撫で声を使えば、男はすぐにころりと落ちる。
上手くおだてながらお世辞を使えば、なおさら馬鹿な男共はブルーに目を奪われ、がらくた同然の道具を高値で買い取っていく。
(勿論、手を出そうなどという不埒な輩がいればシルバーの手がすぐに飛んできた。)
地域をころころと変えて商売をしていたので、騙されたことに気づいた者たちも彼女に追いつけることはなかった。
またある時は、店の前でシルバーがわざとポケモンたちを暴れさせ、店主がそれに気をとられている間に盗みをすることもあった。
“ごめんなさいおじさま、せめて大きな被害を出さない程度にはしておくから。”
そんな謝罪を心の中で唱え、パンを四つ、懐へと隠し入れる。
残った良心で胸が痛まないことはなかった。しかしそれ以上に、今の自分たちを守ることの方がもっと大事だったから―――その痛みが、致命傷となることはなかった。


「ふう、うまくいったわねシルバー!」
「ああ、店主もオレたちに気づかなかったみたいだね」
パンも食べ終え、十分に街中から離れた公園。ここまで来れば大丈夫だろう、人もまばらにいるし…荒く息をする自分たちの姿も目立ちはしない。
額をぬぐい辺りを見渡す。
…と、大きな噴水の隣で、人が不自然に集中しているのに気がついた。何だろうと目を見張ると、そこには小さな店が転々と開かれていた。
「あら…フリーマーケットかしら?」
ひょんと走り出した姉に続き、シルバーもそちらへ向かって歩き出す。
いらないものを売り出す蚤の市―――家族連れの中年の女性や若い男性が、道行く人々に明るく声をかけていた。
「あ…シルバー見て見て!このオルゴールとても綺麗よ」
ブルーが指を差したのは、細々としたものが売られているスペース…その中でも、他のものと比べると少し装飾も控えめな、どちらかといえば地味なオルゴールだった。
しかし音色の美しさはどれにも負けず劣らず、むしろ他のものよりも一段と人をひきつけるもの。…ブルーもうっとりとそれに聞き惚れている。
「静かな曲だね…何ていう曲なの?」
「わからないわ。でも何だか聞いていると安心する…不思議な曲ね」
静かで安心するような音色の中で、それでも何かを訴えてくるような感じもする。…何処か叙情的な雰囲気さえ感じ取れた。
(…懐かしい)
聞き覚えなどないのに、何処かそう思う程に優しい音色―――そう、それはまるで…
「お嬢ちゃんたち、買うのかい?」
店主らしき初老の男性に声をかけられ、はっといきなり現実に戻される。白く長い眉毛の下から、優しい灰色の目が二人を見つめていた。
「ううん、何だか綺麗だなーって…見てただけよ」
「そうかいそうかい、まあ好きなだけ見ていってくれよ」
「はーい♪ありがと、おじさまv…ほら、プリンも見て♪綺麗でしょう」
プリンを抱き上げ、オルゴールと彼女の目の位置を合わせてあげる。…それは至極自然な言葉のようであって、でもシルバーにとっては痛々しいものでもあった。
(やっぱりまだ、ねえさんはニックネームで呼ぶことが出来ないんだ)
ぷりり、と呼ぶ毎にあの男の手が飛んできていたから。

…あの男の影が、未だにねえさんの中でちらついている。

「?シルバー、どうしたの?」
「…いや」
「そお?何だか怖い顔をしていたわよ… それにしても、何だか疲れたわね」
バザーから離れ草むらに腰をかけたブルーの隣に、シルバーも続いて座った。…出来るだけ普通の顔を装って。
「それにしても、ここの人たちは騙されやすいわ。…よくもそんなに他人を信用出来るわよね。アタシね、目を見るとわかるの。あ、この人は騙せる、って」
まるで馬鹿にするかのようにくすくす笑うブルー。シルバーがそれを咎めることはなかった。
「…ねえさん、昼からはどうする?」
「そうねー…そろそろあの男の手がかりでも探そうかしら?」
「ああ。それに、手持ちも増やした方がいいと思うんだ…そう、オレねえさんが朝に仕事に行ってる時に新しいポケモン捕まえたんだ」
「あら、どんなポケモンを捕まえたの?」
「ヤミカラスって言うんだ、ポーチに入れてあったねえさんのピアスを奪おうと近寄ってきて…それで捕まえたんだ」
「…カラス?」
シルバーが腰から外したモンスターボール。そこから勢いよく飛び出した黒い翼…漆黒の羽根が、バサリと辺りに散らばる。
けしてその体は大きくないはずなのに、むしろ小さい方であるのに。何故かブルーの目には、今にも自分を包み込まんとするほどにまで広げられているように見えて…

脳裏に何かが走る。
「ソレ」は明確に自分だけを捕らえ、逃げ走る自分を追いかける。もう息が続かない、と思った瞬間に背中に酷い痛みを感じて、地面から足が浮く。
人間が米粒のように小さくなっていく。 家も、大きな建物も、どんどん視界から消えていく。
どんなに抵抗してもその爪は自分を離さない。 見上げた目に写るのは、

どんな小さいものも見逃さない細長の目、鋭く細長いくちばし、大きく湾曲した鉤爪―――そして、空よりも大きいかのような、翼。

「…っい、ぁ…っ  いやああああああぁぁぁ―――――!!!!!!!」
「!?ねえさん!?」
ブルーが突然、頭を抱え我を忘れたように狂い叫ぶ。驚愕に見開いた碧眼でヤミカラスを一点に見つめたまま、彼女はじりじりと後ずさりを始めた。
「いや、いや…来ないで、来ないでぇ…っ」
ヤミカラスを、―――否、ヤミカラスではない、“他の何か”をそこに見ているかのような瞳。
シルバーも一瞬喫驚したものの、彼女の叫びに驚いた人の目がこちらに集まり始めていたことに気づくと、姉の肩を支えながら急いで公園を後にした。


「ねえさん落ち着いてくれ!どうしたんだ!」
人気のない町外れまで走り、木陰に姉を座らせる。脂汗がひどく、目には涙さえ溜まっている…尋常ではない。こんな姉の姿、見たことがない。
近くの小川から汲んできた水をゆっくりと彼女に飲ませると、ようやくブルーは息を荒くしながらも落ち着いた様子だった。
「はぁ、はぁ… …シ、ルバー…」
「ねえさん、どうしたんだ…ヤミカラスがどうかしたのか?」
ヤミカラス。その発言をしただけで、姉の体はまたもビクリと震えた。
「…ねえさん?」
頭を両手で抱え、彼女はまるで呼吸困難に陥っているかのようにひくりと喉を鳴らした。
「…アタシにもよく分からない…っ …でも、その鳥ポケモンの姿を見た瞬間… 何かが、アタシの頭の中でフラッシュバックされて」
「フラッシュバック…?」
「ヤミカラス、じゃない何か大きな鳥ポケモンが…アタシをまるで捕まえようと、爪を伸ばしている姿が」
「…ねえさん、まさかそれは」
「……ええ… …あの男がアタシたちを捕まえるために所持していたあの大きな鳥…アレが、アタシの記憶の中に」
何処かで聞いたことがある。
酷く辛い経験をした際に、その後になっても人の心の中に残る精神的外傷…トラウマ。きっかけとなった出来事に遭遇するたびに、発症する心の病。
あそこから逃げだしてもう何ヶ月か経ち、やっと悪夢にも悩まされなくなってきた今頃になって…そのようなことが発覚するとは。

「…つまり、アタシは」
ぽつり、とブルーがこぼすように言う。
「何処まで行っても、あの男から逃げられないというわけね」

くしゃり、とブルーが髪をかきあげる。 …シルバーは、ひどく泣き叫びたいような気に駆られた。


・・・Next