「今日は記録的な猛暑日となるでしょう」と、朝の番組で天気予報士は言っていた。
天気予報などそれほどあてにしたことはないが、何もこんな日に当たらなくても良いと思う。天気予報はばっちりと命中し、これまでにない暑さに杜王町の住民は誰もがハンカチで汗をぬぐっていた。
わざわざこんな日に模試だなんて、先生何考えてるのよ。
家への帰路を急ぎながら、鈴美はそんな悪態を心の中でつく。それは周辺への配慮などではなく、声に出せば更に体力を削られるような気がしたからだ。
体中が汗でベタベタして、問題に全く集中出来なかった。少しでも涼しくしようと窓を開ければ、今度は蝉がミンミンとうるさくて余計に集中力を削がれる。おかげで、模試の結果はおおよそ期待出来そうになかった。

時計を見れば、もうすぐ17時。時間だけを見ればそろそろ日が陰ってきても良い頃であるのに、夏は酷だ。暑さが影を潜める様子もない。町の整備化とかで舗装の進むコンクリート道路は、陽炎がゆらゆらと揺らめいている。自分の住む界隈には未だその手が進んでおらず、木々が多いことが唯一の救いだろうか。学校から家へ近づくにつれて、木陰が増えてきてその点は助かる。その代わり刈られていない雑草もたくさん生えていて、時偶足を擦ってしまうのが難点だった。
この辺りも、もう少し店とかが増えればいいのにな。
雑草の生えた小道をすりぬけると、古色蒼然とした家々が立ち並ぶ景色がすぐに見える。学校のある商店街の方と比べ、鈴美の家の付近にはこのように古い家が何件も立ち並ぶためか、その景観を崩さないよう若者が好むような店が少なかった。比例して、流通や交通の便なども悪くポストも自分の家の前に一個しかない。それだけなら別にどうということではないが、何せ電柱も少ないため犬や猫がそのポストの前でフンをしていくという弊害がよく起こる。そして、それに気づいた母が怒っているのを鈴美はよく見ていた。鈴美の部屋は、道路に面した方の二階にあるからだ。
ふと目に入ったポストには、やはり今日も何処かの犬が残していったフンがあった。それを横目に家の前まで来ると、鈴美が帰ってきたのを察知した愛犬が、リードを引きちぎらん勢いで擦り寄ってきた。門を開き、その歓迎を緩やかに受け止める。
「ただいま、アーノルド」
ぱたぱたと尾を振る愛犬は、大きな体をしているのにまるで子犬のようだ。背を軽く撫ぜると、嬉しそうにアーノルドは目を細めた。
「鈴美?」
そんな声に顔をあげれば、応接間の窓から母が顔を出していた。その手には叩きを持ち、掃除中であったことが伺える。
「ちょっと、そのまま帰ってきたの? あれだけ忘れないでって念押ししたのに」
「? 何を?」
「お隣の岸辺さん家、今日明日とお留守でしょ? だから、朝頼んだじゃない。保育園へ露伴ちゃんを迎えに行くの」
――そういえば、そんなことを頼まれたような。
起きるべき時間を大幅に過ぎていて、学校へと慌てていたせいですっかり聞き過ごしていたらしい。即急に制服を脱ぎ捨てワンピースに着替えた後、鈴美は元来た道を再び走りなおすこととなった。

「ごめんね、露伴ちゃん!」
夏休みの保育園は、けして人数が多くはない。くわえて夕方ともなれば、園児保育士の数がごく僅かとなるのは自然なことだった。実際、大きな保育室に子どもはぽつんと一人しかおらず……部屋の真ん中に、露伴はこれでもかというほど画用紙とクレヨンを散らばらせていた。その画用紙の数は、待った時間の長さを物語っている。露伴に付き添っていた若い先生も、鈴美の姿を確認した瞬間ほっとした表情を顔に浮かべた。
「良かったわねぇ、露伴くん! 今日はお姉ちゃんがお迎えに来てくれたわよ」

鈴美がここへ露伴を迎えにくるのは、今日が初めてではない。
露伴の家は両親が共働きであり、家をあけることが多い。杉本家と岸辺家は家が隣同士であるということも相俟って、普段から家族同然の付き合いをしている。それゆえ、比較的暇をもてあましている鈴美が露伴の世話係として抜擢されるのはごく自然の流れであった。改めて、頼まれたことでもない。むしろ、鈴美自身が望んだことでもあった。女の子は世話好きであるという普遍的な例に漏れず、幼い子どもは好きであったし。
何より、鈴美には兄弟がいないため露伴を本当の弟のように可愛がっていた。
ただし、露伴は4歳の子どもにしては妙に気難しい所があった。保育園へと迎えに来た鈴美が、先生から「露伴くん、中々お友達と仲良くなれなくて」などと耳打ちされることもよくあることであったし、外で活発に遊ぶことよりも部屋の中でじっと絵を描くことの方を好み、それを邪魔されると激しく怒るといった妙な面も持ち合わせていた。最も、どちらの点に関しても鈴美は気にかけてなどいなかったが。

散らばっていた画用紙を先生が拾い集めカバンへとしまっている間に、露伴は鈴美の元へと歩み寄った。即座に膝をつき、鈴美は露伴と目線をあわせる。しかし、露伴は鈴美とそのまま視線をあわせることなく、顔を俯かせた。
「本当にごめんね、露伴ちゃん。怒ってる?」
子ども特有の、細く美しい緑の黒髪を撫ぜる。額にあてられた大きめのヘアバンドから流れた髪は、さらりと露伴の顔に零れ落ちた。
「…………遅いんだよ、鈴美お姉ちゃん」
ぎゅ、とスカートの裾を掴み。ぐ、と口をへの字に押し曲げ。瞳はかすかに、潤んでいる。小さく震える体は、まるで子猫のよう――
この子の何処が気難しい子なんだろう。こんなにも可愛いのに!
思わず露伴を抱きしめれば、震えていた体はすぐに緊張を解き放ち、“お姉ちゃん”に体を預けた。


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