「今日、露伴ちゃんのお母さんとお父さんはお仕事なの。だから、今夜はうちに泊まるのよ。わかる?」
「わかるよ」
「寂しくない? 露伴ちゃん、今日は一緒に寝よっか?」
「ぼくはもう大きいんだ、寂しくなんかないよ! ……まぁ、鈴美お姉ちゃんがどうしても一緒に寝てほしいってんなら、一緒に寝てやってもいいけど」

繋がれた手の力が、ぎゅっと強くなる。ぷいと空を見る視線は、照れの証だ。今日三回目となる道を露伴と共に手を繋いで歩きながら、鈴美は微笑んだ。
「うん。じゃあ、一緒に寝ようね。絵も、いっぱい描こう」
「今日は、いっぱい紙を持ってきた」
肩から掛けられたカバンの中には、先程つめられた画用紙の他に白い紙がぎっしりと詰まっていた。あわせて、マジックや色鉛筆、クレヨン……まるで画家か何かが持つカバンのようだ。
「そんなにたくさん……紙なら、うちにだってあるわよ?」
「ぼくはこの紙が好きなんだ。どんな紙だっていいわけじゃあないんだぜ。この紙はすべすべしてて、色がすごくよく馴染むんだ」
志さえも、画家や漫画家の持つそれと同じ……あるいは、それ以上に崇高なものであるように感じる。露伴ちゃんは、将来すごい人になるわ。そんなことを感じざるを得ない。
「それで、何を描こうか?」
「今日は鈴美お姉ちゃんを描く」
「わたし?」
露伴が鈴美を描くのはそう珍しいことではない。露伴は静物動物色々描くが、人間を描く時そばにいるのはほぼ鈴美以外存在しないため、必然的にそうなるのだ。しかし、改めて宣言されたのは初めてのことだった。
「普通のお姉ちゃんじゃあない、ドレス姿のお姉ちゃんだぜ? うんと綺麗に描いてやるよ」
「それは嬉しいけれど、どうしたの? いきなり」
聞けば、露伴の隣のクラスの先生が結婚退職をするらしく。それを聞かされた子どもたちは一斉に浮き足立ち、それぞれ思い思いに結婚式というものを想像した。女の子はお姫様のように着飾った自分を、男の子はその時自分の隣にいるであろう女の子を。普通の子どもとは少しずれている露伴でさえも、その時ばかりは結婚式というものを彼なりに想像した。その時に真っ先に思いついたのが、ドレス姿の鈴美だったらしい。
「だから、鈴美お姉ちゃんを描いてやるよ。本当は園で描いてお姉ちゃんにあげようと思ったんだけれど、女の子たちがまとわりついてきてうっとうしくて描けなかった」
「まあ。露伴ちゃん、クラスの女の子から“大きくなったら結婚しようね”なんて言われたりしたの?」
「まぁね。でも、園の女の子たちはガキくさいから嫌だね。ぼくは、……」
再び、暖かい手が鈴美の手をぎゅうと強く握った。
鈴美の腰辺りまでしかない小さな体がぐるりと方向を変え、鈴美の方を向く。深い色合いを潜ませる大きな紫電の瞳が、じっと鈴美を見上げていた。4歳の子どもにしては不釣合いなその深い色を、鈴美ははっと見つめた。

「鈴美お姉ちゃんを、ぼくのお嫁さんにしてやるよ」

まあ、ありがとう。嬉しいわ。
咄嗟にそんな一言が出てもいいはずなのに、何故か鈴美はそれを言うことが出来なかった。何故?その時の感情のみでぽんぽんと言葉を発するような、子どもの言うことであるのに。ましてや、幼い男の子が身近にいるお姉さん的な少女に憧れを持つなんてよくある話。数年もすれば、自身がそんなこと言った記憶さえ失っていても不思議じゃない。それでも。
そんな幼い男の子であるはずの露伴の瞳には、何処か真剣さが含まれていた。
「……ありがとう、嬉しいわ」
それならば、今だけでも本気に受け取っても罰は当たらないではないか?先程自分が感じた予感は、きっと外れる。今は子どもなりに真剣であっても、やはり数年後には、泡と消えるであろう約束だ。
「でも、露伴ちゃんが結婚できる年になったら、わたしもうおばさんよ?」
「そんなことない。お姉ちゃんは、いつまでもお姉ちゃんだ」
幼い子どもは、お姉ちゃんはいつまで経ってもそのままお姉ちゃんであるものだと信じている。きっと、数年後には「おばさん」なんて生意気に言うんだろうな。それでも自分は、日々成長していく露伴を微笑ましく見守れる自信はあるが。
露伴が十数年後、立派に成長し独りで夢へと歩き出す時……その時、自分はどうしているだろうか。ふとそんなことが頭を過ぎった。露伴が結婚出来る18歳になった時、自分は30歳。露伴が、そろそろ大学へ進学するかそれとも違う道を歩むかという重大な選択を考え出す頃、自分は――と、うっかり想像しかけたがやめておいた。
「それでお姉ちゃんは、ブーケは何がいい?」
「え?」
ドレスの時と同じように唐突な話題だったため、反応が遅れた。ブーケ、ブーケ。脳内でその言葉を何度か反芻して、やっと意味を理解する。お嫁さんになってほしい女性に、男はブーケを渡してプロポーズする。だから、ぼくが大きくなったらお姉ちゃんにブーケをやるよ。露伴はそう言いたいのだろう。それを理解した時、鈴美の口をついて出たのは「ピンクか、赤色のバラ」という言葉だった。露伴が「ピンクか、赤色のバラ?」と不思議そうに繰り返す。
「先生は、普通ブーケは白い花だって言ってたけれど」
「いいのよ。お姉ちゃん、ピンクが好きなの。それか、情熱的な真っ赤な色がいいの」
いつものように薄いピンクのマニキュアを施した左手を見せると、露伴は微妙に納得したような表情をした。伝統なんて関係ない、お姉ちゃんが好きならばそれでもいいか。そんな結論を出したかのような顔を。
子ども相手に、ちょっと大人げなかったかな。素直に「露伴ちゃんが選んでくれる花なら何でもいいよ」なんて可愛く言えば良かったかもしれない。露伴も、そんな言葉を期待していたかもしれないのに。
それでも、何故か鈴美には露伴がこの約束を守ってくれるのではないかという予感が頭のどこかであった。

それにしても。
ドレスって、ウェディングドレスのことなのね。露伴の意外な思考に驚きながらも、それでも嬉しさや愛しさは禁じえない。でもこの子のことだから、実際にウェディングドレスを見るために貸衣装屋さんにこれから行こうなんて言い出したらどうしようかしら。
暑さは大分和らいできたが、朝が早かったのもあってそろそろ疲れてきていた。これは、先手を打つべきだろう。
「露伴ちゃん、アイス買って帰ろうか? お母さんには内緒よ」
「アイス」の一言に、露伴はやっと子どもらしく満面の笑みを浮かべた。結婚式のことは一時的ではあろうが頭から消えていったらしい。ぐいぐいと鈴美の手を引き、最寄のスーパーへと足を急がせる。
所で、お金持ってたっけな。ポケットに入れたはずの小銭を確認しようとした時、後ろから「あの、すみません」と控えめに声をかけられた。

振り返ると、そこには鈴美と同年齢くらいの青年が立っていた。けれども、見たことはない。きっと他校、もしくは他地区の生徒なのだろう。整った顔立ちで、ゆるやかにウェーブのかかった柔らかそうな栗色の髪。青年は、声と同じように控えめな態度だった。
「この辺りに、竹田さんという家があると思うんですけれど」
その手には地図を持っており、青年が道を尋ねたいことは一目瞭然。竹田という家も、この辺りに暮らしている鈴美ならば検討がついた。何も不思議なことではない。
しかし。何処か、鈴美は奇妙なものを感じた。
地図を広げ現在地から目的地までの説明をしている間、青年は何処を見つめていた?地図の上の家々よりも、地図の上で細やかに動く鈴美の指を見ていたような?地図を折りたたむ際、一瞬触れた青年の手が鈴美の手の甲を慈しむかのように撫でた気がしたのは偶然なのか?
……そんなはずはない。どれも、気のせいだ。
青年は地図を必死に見つめ、懸命に家々を目で追っていただけだ。疲れていて、少し自意識過剰だとか被害妄想に陥っているだけだ。現に、青年は「ありがとう」と丁寧に礼を言い鈴美が説明した通り歩いていった。鈴美の方を、ただ一度も振り返ることもなかった。
鈴美はしばらくその背中を見つめていたが、痺れを切らした露伴に手を引かれ再び歩き出した。ポケットから見つけた小銭を、露伴に手渡して。

「……美しい、手だ」
そう小さく呟いた男の言葉を、耳にした者は誰もいなかった。


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