はぁ、はぁ、はぁ…
何処へ行けばいいのか、左右が何処へ繋がっているのか…
少女はそれが全くわからないかのように、森の中を右往左往していた。
何処かで何かの、低くおどろおどろしい雄叫びが聞こえた。 いくつかの種類の入った薬草が入った籠をぎゅっと握り締めながら、少女は辺りを見渡す。
闇、闇、闇…そして静かに吹き抜ける冷たい風にさわさわと梢を揺らし、少女を上から威圧する大きな樹群――――
村への道はどちらだろう。…いや、それよりも。
最近この辺りは芳しい噂を聞かない。迷ったら二度と出てこられないという話は昔からあったが、最近では恐ろしいモンスターが生息しているとかで…
(今日では色々な所で色々なモンスターの話は聞くが、それの比ではないとか)
いや、しかしそれに遭遇する前に。
のろのろと歩みを進めていた少女の前に、2,3の鋭い赤い瞳が光った。
(…狼)
飢えに脳を支配され、赤い目は糧を求めて血走っている…3匹。
荒い息遣いは不規則に、口の端から滴る涎はぽたりと草むらに落ちて、少女に今や飛び掛らんといった所。
世の恐ろしい空気を象徴するかのようなモンスターだ。
しかし、コレは“求めている”ものではない。
化身か?いや、しかし―――
じり、と少女が怯えにも似た足を一歩後ろに下げると、狼たちは低くうなりいきなり飛び掛った。
「っ!」
慄きからか、少女は叫び声もあげず顔を背ける。
「やめるんだ」
自分ではない、人の声。
慨然として顔をあげると、先程まで自分に向かっていたはずの狼たちが今度はその声の主に標的を向けていた―――
人間。―――いつの間に?
足音がしなかった。気配もなかった…こんな森の奥に。
そんな自分にはすでに目もくれず、狼はその者に標的を定め、今にも飛びかかろうとしている。 暗くてあまり顔が見えないが、その者は……
小さく、笑った気がした。
「―――お前たちがボクに手向かうのかい?低俗な妖怪。無謀な判断は命を縮めることになるよ」
綺麗な、声だった。
そして、酷い威圧感。まるでそれが絶対とでも言わんばかりの声音…
狼たちがまるでか弱い仔犬のようにくぅん、と小さく鳴き、その者から一歩足を退けた。
「…お腹が空いているんだね。こんな所で時間をつぶしている暇はないだろう?早くお帰り」
頭を一撫でされると、狼たちはまるで主人に許しをもらった犬のようにぱたぱたと尾を振り、奥へとその姿を消していった。
それを見送った後、向きかえってその者が大丈夫だったかい、と少女に柔らかく声をかける。
そしてゆっくりと少女に近づき、近距離に入って…初めてそこで、少女はその者の全貌を見ることが出来た。
―――少年。多分自分とそう年は変わらないんじゃないかという程度の。
「あ…」
向こうもいささか驚いたのだろうか、少しだけ目を見開けて…それから改めて、少女に近づいた。
「…村の人かい?」
「…え?」
「村の人、じゃないのかい?見た所、森に薬草を摘みに来てそのまま迷ったといった所みたいだけど」
腕に持っていた籠を少年がちらりと見た。
「あ…そう、久々だったので迷ってしまって…最近は暗くなるのも早くなってきましたし」
「そうだね、空気も冷え冷えとしてきた…でも、そんな気候の中で月は更なる美しさを天空で称えている」
「…散歩、ですか?」
「まあそんな所かな…それに、なんだか“下”が騒がしいような気がしてね」
「……」
下…それは多分、村のことだろう。
確かに普段は閑散としていて、明らかに静かな農村といったイメージがはりついた村々が…このところ、騒がしさに包まれている。
それはある噂のことだったり、今日村に到着したある集団のことだったり―――
「おえらい方たちがいらしている、そうです」
「へぇ?」
「…都会の方ではとても有名な…ハンターの方々、だそうで」
少年の目が少し細められた。
「…とりあえず、ここは危険だ。ボクと一緒に来ないかい?」
「…あなた、と?」
「さっきの狼を見たろう?この森は昼間こそ静かなものの、夜は獰猛な生き物たちがあたりに蔓延っているよ。ボクの家はここから近くなんだ」
すっと少年が指差す先に、―――今まで何故か気づかなかった―――古びた洋館の頭が少し見えていた。
いくつかある窓にぽつぽつと橙色の光が灯っている。
「村へ帰る道はボクも定かじゃないんだ。明日明るくなってからの方がいい」
「…ありがとう、ございます」
先程狼が走り去ったあたりの道を少年が進み始める。少女はそれに素直に付き従った。
「…大きいですね」
真正面に向き合って見ると、その洋館は更に大きく見えた。森の中にあった樹郡よりずっと高いのではないか…そう錯覚してしまうほど。
歴史の資料にでも出てきそうだ…そしてその大きな扉を少年が少し押すと、それは埃をわずかに散らしギギギ、と開いた。
「大きいだけさ、中は古いし所々傷んでいるし」
「あなた一人で住んでいるのですか?」
「まあ、ね。…この家は祖父から譲り受けたものだけれど。…その祖父も、父も母も、皆モンスターに殺されたから」
まるで他人事を話すかのように抑揚のない声で少年が言う。
低い階段を2,3登りエントランスに入ると、眼前にまた一人の少年の姿が見えた。…最も、こちらの少年は死んだように目が虚ろで…
「…お帰りなさいませ」
「ただいま、ミツルくん」
少女が驚いたように目を見開ける。
そうしている間にも、主に向き合っているかのような(そんなに年齢は変わらないだろうに)その緑髪の少年は、共にいる少女には目もくれず奥に消えていった。
「部屋を用意しなくてはね」
「…彼は…?」
「友達さ、最近一緒に暮らすようになったんだ」
またしても、少年は何でもないかのような声音で言った。
「この部屋でどうかな」
二階に案内され、そこから少し進んだ部屋に到着した。
埃っぽく決して女性用とはいえないだろうが、綺麗な部屋だ。お客様用としては合格点あたりだろう。
「くつろいでいってくれ…っていっても一泊だけだけどね」
「…ありがとう、ございます」
「少し休んだら食事にしようか」
少年が少女に背を向けすたすたと入り口に進む。
そのまま部屋から出て行くのかと思えば、体を半分廊下に出した所でふと少女に向きかえった。
「そういえば、まだ自己紹介してなかった。…ボクはルビー。キミは?」
少女は少年に背を向け、窓から外の木々生い茂る森をながめて―――
「…エルフ」
―――暫くして、あの緑髪の少年がエルフを呼びに来た。
お食事です、と先程と全く同じ抑揚のない声。階段を下りるまでに2,3質問をしたが、期待したような答えは返ってこなかった。
風景画が並べられた長い廊下を無言で進み、突き当たりの趣きのある大きなドア前に到達する。
先程の入り口のドアほどではないが、いろいろと装飾もあってまさしく貴族好み、といったものだった。(全体的に少し埃っぽいのが気になったが)
「お待たせしたね」
よくある長い机に、蝋燭が等間隔に並べられて。いわゆる当主席に彼は座っていた。
エルフの姿を見ると、立ち上がりすす、と自分と反対側の席にまで進む。そしてどうぞこちらに、とにこやかに笑った。
「口にあうといいけど」
エルフがそこに座ると、ルビーもまた自分の席へと戻った。
全体的に白く、周りに小さく葉っぱのレリーフが入った磁器の皿。そしてその上に綺麗に料理は盛り付けられていた。
ただのお客人であれば、待遇の素晴らしさに感激する所であろうが…
「…ごめんなさい、あまりお腹がすいて…なくて」
「―――ああ、そうだよね。さっきあんな怖い目にあったんだもんね。でも何も口にしないのも寂しいし…じゃあ飲み物はどうかな」
ルビーの声と共に緑髪の少年がエルフの横に進み出、グラスになみなみと“ソレ”を注いでいく。
…目の前に出された、赤い、赤い、ワイン。
「………」
「綺麗だろう?まるで―――血みたいで」
はっとエルフが顔をあげた。
一瞬目があった彼の瞳は、このワインと同じような赤い―――紅い色で。
「ふふ、何を心配しているのかな?毒は入ってないよ。きっと美味しいと思う」
緑髪の少年がルビーの眼前のグラスにも同じものを注いだ。たっぷりとしたその赤い色を楽しんだ後、ルビーがこくりこくりとワインを喉に流し込む。
半分ほどが口内へと消えていくと、ルビーはグラスから口を離し悪戯っぽく笑った。
「…うん、美味しいよ」
ルビーの視線にとらえられ、エルフがグラスを持ち上げる。
ほんの少し、ほんの一滴ほどのソレをすする。…ワインはとても滑らかに、エルフの舌の上を滑った。
葡萄のような、洋梨のような、…ワイン自体今まで一度も口にしたことがないので、何とも例えようのない味だが。
「―――美味しい、です」
「良かった。料理も気が向いたら遠慮なく食べてね」
さて、とルビーがフォークとナイフを手にした。
「…ねえ。―――ハンター…モンスター退治の一人者たち。…なぜそんな方々があんな侘しい村に?」
かねてよりの疑問のようにルビーが言う。
先程までずっと無言だったので、いきなりの会話にエルフも一瞬とまどった。
「…村内である噂が流れているんです、ご存知ありませんか」
「…さあ?世俗事には疎くて」
磁器の食器がかちゃかちゃと音をたてて。
ルビーは目の前の少女にかまうことなくフォークとナイフを動かしていた。
「この森には何かがいる、という噂です」
キィ、とナイフが皿の上をすべった。
「…何か、とは?」
「…そこまでは」
「狼だったらたくさんいるね、確かに怖いものかもしれないけど」
勿論、村の者たちの恐怖の根源がそんなものではないことは互いにわかっているはずだ。
しかし二人ともそれについての話題をそれ以上進めることはなく、また再び静寂が辺りを包み込んだ。
ゆらゆらと、蝋燭の灯火は妖しく揺らめいて。
やはり、彼がそうだ。
気分が優れないので、と引っ込んだ部屋のベッドの中で、彼女はそう思う。
自分がずっと探していた人―――目当て、の。
(あたしの予想なら)
彼はきっと此処へ来る。自分を襲うためか、それとも―――それは、わからないけれど。
ぎゅ、とソレを強く握り締めた。
キィ
何処か遠慮しがちに、部屋のドアが開く音が聞こえた。
自分の心臓がドクン、といったのがやけに響いて聞こえた。
コツ、コツ、コツ… ドクン、ドクン、ドクン…
来訪者の足音とまるで呼応するかのように、心臓の音はいちいち足音に反応しうるさく鳴り響いて。
「エルフ」
そ、と自分の肩に彼のいやに冷たい指先が触れたのが、 ―――合図。
ガ バ ッ
布団が宙を舞う、暗闇に白いシーツがやけに映えた――― 彼は素早く身を避けていて、 …彼女は、細い剣を携えて。
間違いなく彼が身を退かなければ、彼はその剣の餌食となっていたであろう。
「…やっぱり…キミはそうだったのか、ハンター」
先程までの弱弱しい目はそこにはなく。 彼女の目は、獣たちにも負けないギラギラとした光を放っていた。
・・・次章