「お前はまるで蛇のようだね」
幼い頃の記憶で、一番しっかりしているのはその言葉。
「幼い頃」ってのは、おれがまだ「蛇骨」の名もなかった、小便くさいガキだった時のことだ。その時住んでいた屋敷で、おれが小さな庭でガキらしく遊んでいた時。一人の女が縁側に出てきて、着物袖で口元を覆いよくそうやって呟いたものだった。
その女は、おれの母。
……雪が降ると、いつもこのことを思い出す。

「うーっし、これで仕舞いかな」
地響きにも似た音をたて、蛮骨が蛮竜を地に刺した。その足元には、数えるのさえ億劫になる程夥しい、野伏たち。勿論皆、事切れている。何処にこんなに潜んでいたのか、と笑いさえ浮かんでくる程だった。
「元々、ここを根城にしていた輩ですね。まだこれほど残っていたとは」
「数ばっかり集まりやがって。しっかしこの辺りはいつ来ても治安が悪ィなあ。今度大名さんに頼んで警備兵でもつけてもらった方がいいかな」
「その方がいいかもしれませんね。ここに来るたびに襲われては身も持たない。もう少し、ここには滞在したいですから」
「冬を越すぐれえは休みたいしな。おい蛇骨」
蛮骨と煉骨が視線をうつすと、そこには――蛇骨刀を鞘に収めず、その刃を野伏の体に絡みつかせたままの蛇骨がいた。白い息を浮かべ、空を仰いでいる。その眸はまるで、はらはらと降り始めていた雪に見惚れているかのような、夢見心地な色。“また”あれだ、と二人は顔を見合わせ息をついた。
「おーいじゃーこーつ!」
「え? あ」
やっと呼びかけに反応し、二人に向かって薄く笑うと、蛇骨は手の平を返し刀を引いた。野伏の簡素な具足は脆くも砕け、ブシュ、と血が水のように噴き出す。……刀は血を跳び散らし、されど静かに鞘におさめられた。両手両足が胴体から千切られた野伏の体に、細かな雪がはらはらと降り積もる。血の上に載りかかると、白い雪がじわりと赤を吸い込んだ。蛇骨はそれに見向きもせず、足元に群がっている躯を蹴り上げると兄貴分達の元に駆け寄った。
「ごめんごめん。何だった?」
「何、じゃねえよ。ぼーっとしてやがって……そんなんじゃ怪我すっぜ」
「んなことねーって。そうだな、こんな天気じゃなきゃぼーっとなんてしねんだけど」
その言葉に、ふと二人が蛇骨を見据える。蛇骨は空に腕を掲げると、舞い落ちる雪をその手に掴んだ。視線はまた、遠くを泳いでいた。

「……へび?」
「そう、蛇さ。狡猾で、不吉の象徴」
微笑の欠片もなく、まるでそこにないものを見ているかのような“無の眸”をおれに向けていた母。その濡れた唇からは、おれを蔑む言葉を常に吐き続けていた。子供だから意味なんてわからないと思ったのだろうか。それとも、意図的だったのだろうか。仮にも、自分の子であるのに。
「こうかつ? ふきつ?」
「お前は本当に何も知らないね。まあ、教えていないのだから当たり前だけれど。それで知恵をつけたら、いよいよ扱いにくいものね」
それだけ言うと、母は奥へ引っ込んだ。ふわりと、柔らかそうな、艶めく髪を揺らして。

国境となる近くの山を超えるために多くの者が訪れる、世から閉ざされたといっても過言じゃない貧村――そんな村にただ一つある小さな宿で、おれは生まれた。宿といっても、旅籠屋とかそんな大層なものじゃない。申し訳程度の食事と、寝る所、そして必要とあれば“女”を与える……そんな、ちっと変わった小さな宿だった。
昔は普通の宿だったらしいが、それだけでは暮らしていけないことをこの小さな村の女たちは悟った。しかも、この辺りはほぼいつでも雪に覆われている。そんな辛い地帯を越えてきたとなれば、暖かい人肌が恋しいのは人の性質というものだ。山を越え旅を続けるために、疲れと欲を落とす。金さえ払えば、好きな女を調達出来る。男も満足でき、女もその日を生きる糧を手に入れられる。おれも当時はガキだったからわかんなかったけど、結構いい商売だなと今は思う。

そんな宿を営む女たちの中で、母は客に人気だった。雪をそのまま肌に塗りこんだかのように白い柔肌、影を作る睫毛を備えた切れ長な眸、長い緑の黒髪――常にゆらりと、花のように嫋やかな立振舞。母は他の煩いだけの女とは違う、言わば夢幻さを兼ね備えていた。母はいつも目を伏せがちで愛想はお世辞にもあるとは言えなかった。それは「男の誘いなど受けない」といったようにすら見えたが、それが余計に男を誘っていたのだろう。男は中々自分に媚びない芯の強い女をどうにかして組み伏せたいという願望が本能にある。どちらかといえば寡黙気味だったが、たまに紡がれる母の言葉は意外にも巧みで、ほっそりとした手で滑らかに太腿を撫ぜ、添い寝を誘えば齧りつかない男はいなかった。何よりたまに見せる笑顔は、貴重で、何より綺麗だった。それは根雪の下から顔を出す一輪の花が、すべからく愛されるように。
でも、その笑みをおれに向けたことは……おれの記憶の中にはない。
否、なかったんだと思う。

珍しく母に一人も客が来なかったある夜に、聞いてみたことがある。酒を飲み月を見ていた母、真正面から問うことなど到底出来ずその背に向かってではあったけれど。
「母さんは、どうして笑わないの?」と。
すぐに、母は何の感情も宿していない眸でおれを見た。
「昔はよく笑ったものだよ。……そうだね、きっとお前が生まれて笑い方を忘れちまったのさ」

客に見せる笑顔は、建前さ。お前も大人になったらわかる。心からの笑みなど、出来やしないってことを。

昔は感じなかったが、今になって思えば、母は常に “無”だった。
笑みも、悲しみも、嬉しさも、怒りも。一切、母はおれにそれらの感情を向けることはなかった。ただいつも死んだような目で、おれを見るだけ。
死んだ感情。感情が向けられないということ。勿論、おれを褒めることなどない。何か悪いことをしても、怒りもしない。激情さえ向けることはない。……ただ、常に無気力な目でおれを見るだけ。その振る舞いは、「あたしには関係ない」と常に訴えていた。おれは子どもながらに、そんな母の態度を寂しいと思った“可愛い”時期もあった。
しかしある時から、母がおれに向ける感情がもう一つだけあることに気付いた。無気力以外に、おれに向ける感情――それは、鋭い感情。
はっきりとした、殺意。

母が客をとっている間、おれは客から見えないようにいつも離れた部屋にいた。それは母の言いつけでもあった。けれども一回だけ、それを破って囲炉裏の方へ行ったことがある。母が相手をしているのはどのような男なのだろう、と少しの幼い好奇心からだった。襖からちらりと覗くと、無精ひげを生やした男が母の前に座っていた。母はいつものように、男の横に座り、伏せ目がちの眸で男の杯に酒をついでいる。男がおとと、と酒を口に運び、ふと襖に目をやった。その瞬間、おれはしまったと思った。その目が、はっきりとおれを目にとらえたからだ。
「あの童は?」
母が襖の方をちらりと見、……おれの姿を目でとらえると、……顔色一つ変えずに答えた。
「ここで預かっている、ただの童でございます」
「ほう。中々に別嬪だのう。一夜ほど、添い寝を願いたいところだわ」
そう言って豪快に笑ったその男にとっては、その言葉はただの冗談でしかなかっただろう。母は男の言葉に薄く笑うと、おれに再度目はくれず奥の部屋へと男を誘い入っていった。おれはそれを見届け、嬌声が聞こえるのと同時に元いた部屋へと戻った。
それから、ひんやりとした朝靄が辺りを覆う暁の刻。母は足音を遠慮することもなく、部屋へと入ってきて眠っていたおれを布団から引きずり出した。驚きで目を覚ましたおれが「何がおきたのか」と把握するまでの間に、母はおれを囲炉裏端に押し倒した……そして、その無感情な眸で見下ろした。母はおれの体の上に座り込むと、胸倉を掴みあげた。この細腕の、何処にそのような力があるのだろうと幼心に思ったほどだ。
「母、さん」
「お前は生まれてきただけじゃなく、あたしから生きる道も奪おうってのか――いい根性だね」

ただ黒いだけの瞳が、俺をみる。ぞっとした冷たいものが、背を駆け上がっていった。何の感情もこもっていない眸が、その時ほど怖いと思ったことはねえ。壊れてる、とひしと感じた。
おれが言葉を発する前に、頬にじいんとした痛みが走った。一瞬、何をされたのかわからなかった。殴られたのだ、とわかった時には、次の手が頬を張り飛ばしていた。

「死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね」

普段客に優しく添えられている母の白い手が、おれを殴り続けていた。頬にじんわりと血がたまり、それが口の端から流れ落ちるのを感じる。痛みがどんどんおれを襲った。母はまるでその行為しかしらない人形のように、狂ったように、おれを殴り続けていた。貧弱だったガキのおれに、それを止める力があったはずがない。痛みと混乱で喉がひきつり、「やめて」と叫ぶことすら許されなかった。肌を打つ異常な物音に気づいた同業の女たちが母を取り押さえるまで、その行為は続けられていた。
普通の子どもならそんな目にあったら、悲しみや恐怖を覚えるだろう。しかしその時、おれは何か奇妙な感情が胸に芽生えていた。恐ろしさではない、怒りじゃない、悲しみじゃない、妙な、胸にざわりとくる変な感情。口の端から流れる血が、舌の上で躍った。
母は、女たちに取り押さえられながら血走った目でおれに吐き捨てた。

「憎らしい。お前は何処か、あの人を思い出させるよ」

(父さんのことだ)
おれはすぐにわかった。父の話はご法度だった。父のことを口にすれば少なからず、感情のない母でも嫌な顔をした。おれも聞いてもどうなるものでもない、と思って聞かなかった。ここにいないということは、いい話ではないことは解っていたし。ただ、一度だけ母が酒に呑まれて、そのことをぽつりとおれに話したことがある。近くにいたおれを据わった目で見て、怨緒のこもったような、そうでないような、測り兼ねるとんとんとした声音で。

「あの人は、違うと思ったのにね。所詮は、男だったんだね」
「……?」
「お前の父親さ。……そうだね、ちょうど十年前くらいのことだったかね。この宿に、お前の父親がお仲間を連れて泊まりに着たんだよ」

父は、まだ武士になりたてといったような、少し緊張をしたような素朴な面持ちの男だったそうだ。きっと、中央からこの地方へと飛ばされてきたのだろう。初任務といったような、初々しい顔で。何故この宿に一晩泊まることになったのか、それは知らない。父は女もとらず、酒も飲まず、とても礼儀正しかった。そして何より、優しかったのだと。何でも、この宿でその頃まだ働いて間もなかった母が年配の女たちに執拗に苛められていたのを助けたとか。
それがきっかけで、父は母を気に入り、母は父を気に入った。父は一晩の宿を去った後も、任務の暇をつくろって母に会いに来た。泊まりにくることもしばしばあったそうだ。ここにくる客達とは違い、性急に母を求めず、ただ愛したのだと。そうやって、共に時間を過ごした。ゆっくりと密な関係になっていき、そして……
一度だけ、体を重ねた。
たった一度だけ。それで、子を宿す確率は万一……
しかし、母はおれを宿した。

母はそれでも良い、と思った。この男と共に家庭を作り、子を育てていくことを覚悟していた。
けれど。

父は、母が子を宿したことを知ると、その翌日、姿を消した。母に何も言わず、そしていつの間にか任務先も変わっており、完全なる音信不通。行方不明。

結果、父は母を裏切ったのだ。

「あたしも馬鹿だったんだよ。一人の男に熱をあげるなんてね」
おれは何て言えばいいか解らなかった。ただ、黙って母を見つめていた。母はいつもの通り無気力な眸で、涙も見えない。……悲しい、わけでもなさそうで。でも何かは言わなくていけないような気がして、ただ、酷いね、と言った。
すると。

「お前にはその男の血が流れてるんだよ。お前は……お前の姿は、何処かあの人を彷彿とさせる」

おれは狂った母に手をあげられてから、極力母と距離ととるようになった。母が怖いと思ったのか、それは今でもわからない。ただ、“何か”を自分がし起こしてしまいそうで……そのせいだったのかもしれない。
母はそれからも変わらず宿で働き、男をとり続けたし、あの眸も変わらなかった。
男に抱かれている間は熱に浮かれたようなな眸をして、あられもない声をあげている母。それなのに、事後は、すぐにあの目をする。
(あの目。どうして母さんはあんな目をするんだろう)
何が、母をあのようにしているのだろう。きっと、母の中には今でも父の姿があるのだと思った。ああは言っているが、きっと父のことを想っているのだろうと思った。好きだとか、嫌いだとか、殺してやりたいとか、愛してほしいとか、複雑な感情があったのだと今では思う。隠すために、感情を殺したのだと思った。
そしておれのことをあの無感情な眸で見るのも、きっとおれが父に何処か似ているから。

「母さん。おれのことが嫌いなのは、父さんに似てるから?」
「……それもある」
「おれに名前をつけてくれないのも、父さんに似てるから?」
「お前に名前をつけないのは、きっとお前に名前をつけたら……お前を、忌みある者にしてしまいそうだからさ。あたしの、最後の愛情だと思っておくれ」

「……やっぱりおれのこと、嫌いなんだね」
「お前のことが嫌いなのはね、あの男に何処か似てるからだけじゃない。
お前が、あたしに似てるからだよ」