白霊山の清らかな聖域の結界が、自分に「出て行け」と訴えていた。
白く立ち込める薄い霧は、死してなおこの世に生存したいと醜く願う巫女に、清められる資格はないと責めたてる。
(わかっている……私に許されないことくらい)
袴が重い。まるで、自分の背に誰かがおぶさっているようだ。ただ歩いているだけなのに、不思議と息があがっていっている。――これまでに、死した魂で形成されている土の体をこの結界が拒むとは。無言のうちに自分を責め立てる嘲罵が耳を劈き、今すぐにでもふさぎたい衝動に駆られる。
(わかってる……わかってる……だが)
村に残してきた子供たちも気がかりだったが、桔梗にはそれよりも気になることがあった。それは勿論、現世に存在したいと自分が切に思う原因である男のことだったり、自分を殺した憎むべきあの男のことだったりする。
だが今は……それ以上に。
死してなお両面感情を持ち互いの存在に苦しむあの医者のこと……自分と同じ運命を背負った者共のこと。本来の巫女としての同情心が芽生えたわけではない、ただ知りたいとだけ思う。あの者たちはこうして蘇りしより何を願い、何のために生存し、何のためにあの奈落などに付き従っているのか。
清らかな霧が桔梗の体に容赦なく鞭を打つ。弓を杖代わりにしながら、桔梗はともかくこの結界の外に出なくては、と緩慢に歩みを進めていた。結界がだんだんと緩むのを感じながら左右を確かめずに虚ろなまま進んだせいで、いつの間にか森の中に迷い込んでしまっていた。ぼやける視界は木、木、木……。体のけだるさを実感しながら瞳を前に向ける。
……と、ゆっくりと……視界に、木以外のものが入るのを見た。”それ”が桔梗の横を通り過ぎてから、相手も自分も反応を示す。

「貴様」
「あんたは」

その者が誰かがなんとなく検討がついた。そして、相手も自分のことを知っているかのような表情を浮かべた。お互いに相手に関しての知識は少しあった。顔と名前とどんな奴かくらいは――。
「七人隊……奈落の手先だな」
「蛮骨だ。付属品みてえなことは言わねえでくれるか、桔梗サン」
男は軽く笑った。少年ながらのその大きな器量は確かに、彼が首領だということを自ずと物語っていた。敵であることは瞬時にわかったが、何故か武器をとる気にはなれなかった。多分、それは自分が心のどこかで彼に会いたがっていたからで……男も自分に武器を向けなかったが、何か下手な動きをすればきっとすぐにでも自分を切り裂くであろう程の鋭さを身にまとっていた。
「……そんなに殺気を向けるな、別にとって食ったりなどしない」
自分でも奇妙なほど落ち着いた口調だった。何処か、目の前の彼が似ていたのだ。生前の、警戒心を丸出しにさせていたあの半妖……犬夜叉に。だから、何処か似たものになってしまった。
「とって食う? この俺を? 流石、一回死んだ人は言うことが大きいねえ」
「蛮骨、私はお前に会いたかった。私とお前、……否、お前たちは境遇が似ている」
「似ている? 知ったような口は聞いて欲しくねえな。何処が似てるってんだ。生き返ったのは同じ本意ならずだが、こうして生きている意味は全然違う俺たちが?
背中に背負ってる重みだって違う。受けた痛みも違う。今抱えてるモノだって違うじゃねえか」
男は変に饒舌だった。否が応でも否定したいような、奇妙な感じを受ける。
「……蛮骨、私は多分お前たちと私を重ねているのだと思う。私はお前たちの末路が知りたい。そして、私の末路が知りたい。こう思うことは、多分私とお前たちが似ているからだ」
「違う」
「違わん。私もお前たちも同じ死人。行き着く先は同じだ」
「そこまで似てるってなら意見を聞かせてもらおうじゃないか、桔梗サン。俺は今、一番信頼していた奴に裏切られそうなんだ。それをあんたはどう思う? 裏切りを知らない誠実な巫女様よ」
その言葉に、桔梗ははっとした。

裏切り――心を違える――謀られ――殺しあう。

目の前にいる男が“裏切られそうだ”という者が誰であるかは知らない。しかし桔梗は過去の自身の過ちから、脳裏に、目の前の男が――あの狡猾な悪魔の策略によって――滅びていく姿が過ぎった。
奈落……あの悪魔。自身の味方でさえ、利用しきれば謀り殺そうというのか。しかも、人がおおよそ一番体験したくない“近しい者の裏切り”という形で。……何処までも卑劣で残虐な男よ……。死神と呼ばれたというこの傭兵の男が、悪意を知らぬ赤子にさえ見える。
時が来るまで傍観者でいようと誓い静めたはずだった奈落に対しての憎悪の炎が、改めて桔梗の心に燃え盛った。そして、黙り込んだ桔梗に蛮骨は暫く視線を向けた後……大鉾を担ぎなおし、元行こうとしていた白霊山の方向へと体を向けた。
「ほらな、桔梗サン。それがあんたの答えだ。……あんたは俺たちと似ていない。あんたは第三者でいればいい」
口出しはするな、と暗に仄めかしながら、蛮骨は背を向けて歩き出そうとした。
「! 待て、蛮骨!」
我に返り、とっさに桔梗が声をかける。荒げられた声に、蛮骨はもはや鬱陶しそうに……首だけをそちらに向けた。
「悪いことは言わん。すぐにでも仲間をつれてここから立ち去れ」
「……それがあんたの意見か?」
蛮骨は唖然としたようにそうとだけ言った。何を言ってるんだ、とさも言いたげだ。
「聞け。あいつ……犬夜叉は追ってまで、お前たちを手にかけようなどとは思っておらん。邪魔だてさえしなければ、お前たちを害するものはいない」
「…………」
「奈落はお前たちを阻むやもしれんが、今あいつは白霊山から出てこれん状況。今は逃げ、体勢を立て直せばお前たちとてやすやすやられはしまい。今は不利だ」
だから、と続けようとする桔梗に、蛮骨は薄く笑った。
「あんた、俺たちに味方してんのか?確かに、それは最善策かもしれねえな。俺だってただ従ってるわけじゃねえ、あの奈落って奴が信用出来るか否かくらいわかる」
「だったら……」
「けどなぁ、もう遅ぇんだよ」
蛮骨の目が桔梗を射抜く。――強い瞳。少年の意思をそのまま宿しているかのような、弓なりの形のいい眉。それも何処か、あの知り合いの半妖の少年に似ているような気がした。
「もとより、俺たちは一蓮托生なんだ。最初っから逃げる気なんてさらさらなかったが、凶骨がこの地でくたばっちまった時から……俺は決めてたんだ。負ける気なんて毛頭ねえが、万が一っつうことがあればあいつらがくたばったこの地でじゃないとな。霧骨も銀骨も、寂しがる。それに、“あいつ”もこの地で俺を殺るって決意してるようだし」

蛮骨が何処か遠い目をする。
白霊山、――否。……空、――否、……もっと遠い所を見つめている。

「お前……」
「ともかく、全員がこの地で戦おうって決めたんだ。いくら俺でも、その意思は変えられねぇ……どれだけ勝ち目がなかろうとも勝つまでは敵に背を向けられねぇ。それが俺たち七人隊だ」
「……お主……わかってて進むのか」
馬鹿じゃないのならこのまま進めば何があるか、どうなるかくらいわかるだろう。小動物が罠があることを知りながら、森の中へ進み行く。蛮骨が言っていることは、それと何ら変わりない。
「……私は死して蘇りしより、妙な予知をすることがたまにある。……私の予知の中で、お前は」

――――。

「やめろよ」
「……?」
「あんたの予知ん中で俺がどうなってんだかは知らねえが、俺は少なくとも予知夢ってもんを見たことがねえ。俺は自分が体験したもんしか信じねえ性質だ。進む先が闇だって誰に言われようが、俺は信じねえ」
「……滅びぬとわからんと言うのか」
「そういうこった」
この男は、この予知が確実なものとわかっていようとも進むのをやめないのだろう……何となく、それがわかった。滅びるのを知りながら進むのを愚かととるか、美しいととるかは人の価値観の違い。少なくとも、この男はそれを理解している。
諦めではない。自分で選ぶのだ。
「蘇ったのは俺たちの本意じゃねえ。だが、進むのは俺たちの本意だ」
「……」
「だから、俺たちとお前の行きつく先は違う。同じ死人でも、この先が何であるかは違う」
これ以上の言及、引き止めは無駄だろう。桔梗は自然に口を閉じ、蛮骨をじっと見つめていた。言いてえことはそれだけか、なら行くぜ、と蛮骨が強い口調で言う。
「じゃあな、桔梗サン。あんたもすることがあるんだろ? 何したって勝手だが、睡骨に手を出すのはやめろよ。あいつは俺のだから」
後ろ手を振る蛮骨に、弓を構える気にもなれず……いつの間にか、霧の居心地の悪さを感じさせないほどにその背中に魅入ってしまった。
そして、自然に胸に手をあてる。

せめて進む先が闇であっても、あの男にとって心地よい闇であらんことを。

敵としてではなく、巫女としてではなく。
一人の人間としての祈りを、この聖域で捧げる。