男の無骨な手が、肌蹴た着物の袖から蛇骨の肌を撫でた。首から胸、腰に滑るその手はまるで、手探りで実体を確認しようとしているかのような軌跡を描く。そこに、戦場で向かってきたあの猛進さは皆無だった。顔に似合わず、案外優しい触り方するじゃねえか――男の、潜んだ繊細さを感じた。まるで傷ついた者を労わる医者のようだ。そこまで考えて、そういえばコイツは医者だった、と再確認し何だか笑いたくなった。
(別人たァいえ、同じ体に存在するモン同士。似通った所があんのかね)
そのようなことを、頭の隅で冷静に考えていた。
「何考えてやがる」
男が顔をあげた。その顔は怒っているようだった。元々鬼のような顔をしてるから、これが真顔なのかもしれないが。
「いや? 月が、さ。中々いい位置に来たなぁと思ってよ」
「月だと……?」
男が蛇骨の視線を追うかのように、障子窓から外を見上げる。昨夜とは打って変わって、はっきりとした黄色い月が浮かんでいた。横たわっている二人からはその月はまるで、荘厳に構える松の木に黄色い実が成ったかのように見えていた。
それを見計らったかのように。
地面を揺るがす爆音が響いた。何かが割れたような、夜の静けさを切り裂く破裂音。それは一度に留まらず、乾いた音がいくつも重なって聞こえてくる。ずううんと低く響き、次いで周囲から人の叫びが随所であがる――混乱、驚愕、怒声、それらの入り混じった悲鳴は混沌極まりない。
言うなれば、それは阿鼻叫喚。

「結局はこういう手になるんですね」
両手に持った手製の爆雷筒を放り投げながら、煉骨は隣の蛮骨を見る。
二人は今茂みから姿を現し、菊池家を見下ろせる屋根の上に佇んでいた。蛮骨は蛮竜を手に、眼前をただ見下ろしていた。「何をしているのか」、問うのは愚問だ、あの弟分を探しているのだろう。女中となっている弟分まで爆破に巻き込んでしまっては、洒落にもならない。
それにしても。やっと本領発揮とすることが出来たが、こうなってしまっては作戦も何もないもんだと煉骨は思った。それを察してか、蛮骨は「すまねえな」と煉骨の肩を叩く。
「俺の性分なもんでな。あの大将さんじゃ、こうでもしねえといつまでたってもびくびくして埒が明かねえ。勝ちってのは、少々力づくでもやらねえと得られねえんだ」
「力づく、ですか」
爆雷筒は煉骨の手を離れ、緩やかな曲線を描いて一つの部屋の障子に火をつける。火がついていることに気づいた中の者が逃げ出そうと部屋を飛び出した瞬間に、爆破は始まる。ばらばらとなった肉片は、すぐに炎に溶かされていった。あとはただ、人の肉が燃える異様な音と、異臭があがるのみ。あちこちであがる炎に照らされた煉骨の顔は、反して、酷く冷えていた。
「そういう手は嫌いではないですがね」
二人の足元では、蛮骨が呼び寄せた援軍が進撃を開始していた。

爆音に動揺した男の隙をつき、蛇骨は男の腹を両の足で思い切り蹴りあげた。男が低く呻き、体勢を崩す。蛇骨は軽やかに身を丸め、体勢を直して膝をついた。そうしてから崩れた着物を直し男を睨み付ければ、男も同じように蛇骨を睨み付けていた。
「――仲間か」
「ああ。悪ィが、こうなっちまった以上てめえとやりあってる時間はねえ」
忌々しそうに男が舌を打った。
蛇骨は男を真っ直ぐに見据えながら、状況を把握しようとしていた。一応の危機は脱したとはいえ、今自分が丸腰であることに変わりは無い。小刀は何処へ飛んだ?今となっては、その存在すら解らなかった。探す素振りをして少しでも目線を逸らせば、すぐに男は再び襲い掛かってくるだろう。視線を外したら負けだ――そう感じていた。また押さえ込まれようものなら、今度こそ死を覚悟しなければならない。何しろ男と自分の間にはどうしようもない体格差があり、経験差がある。接近戦に持ち込まれたら終わりだ。距離をとったまま戦わなければ。しかし、どうすれば? ……。
「てめえ、考えてやがるな? ここから、どうしたら逃げられるか。クク、何せ昨日実力の差を見せ付けられたからな」
男が鉤爪のついた手甲の紐を手繰り寄せ、いつの間にか装着していた。蛇骨は眉をひそめる。これでいよいよ、気張っていかなくてはならなくなった。隙を見せたら、死ぬ。悔しいが男の言うとおり、今のままでは勝てない……しかし。
「ふん、このままやられっぱなしって訳にもいかねーんだよ。兄貴たちに呆れられちまう!」
蛇骨は畳を蹴った。瞬時、男もそれを追って飛び掛ってくる。鉤爪が蛇骨を捉えようと、空を切った。やはり男は再び、蛇骨を押さえ込もうとしている。間一髪でそれを交わし、蛇骨は――床の間にあった業物を、掴んだ。紫色の布を被せられたそれは、見た目よりも重かった。しかし扱えない程ではない。自分の身長ほどもある得物、こんなもの見た事がないが何も武器を持ち合わせていない以上、これを使って男を迎撃するしかない。
「! やめろ、それはてめえが扱えるようなもんじゃねえぞ!」
男の叫びを無視し、紫色の布を剥ぎ取ると、煌々とした銀色の光沢が蛇骨の目に入った。三日月のようにうねる刃は、少し動かすだけで光が反射し刀の上を踊る。刹那、蛇骨は不自然なものを感じた。
飾ってあったとはいえ、これは一応人殺しのための武器だ。なのに、血で汚れた痕が全くない。まるで作られてすぐに使用を禁忌とされたかのように。
(これ、今まで誰も使ってねえんじゃねえか?)
「……それが人を殺したのは、今までに一人だけだ」
まるで蛇骨の疑問に答えるかのように、男が呟く。男の顔は何処となく先程よりも余裕を失っているように見えた。蛇骨を、否蛇骨が持っている得物を警戒している。その表情に、蛇骨は無意識に安堵を覚えていた。これで戦える――!
「へえ、一人だけなの? 何でだろうな? 武器なのにさ」
「……すぐにわかるぜ、小僧!」
男が爪を振りかざす。合わせて、蛇骨は得物を振った。男の目が一瞬、力を込めたように見えた。
ヒュン、シュルルル……ッ 男の爪を受け止めるはずだった刀は曲がりくねり、直線を進むことなく円を描くように男を囲んだ。そして男の右肩をえぐった後、跳ね返り……蛇骨の着物を、斬り裂いた。
「なっ……!」
襟から胸、腹まで真っ直ぐに刃を刺し入れたように、はらりと小袖が崩れる。帯を締めていたため全てが落ちることはなかったが、下に着込んでいた胸当がなければ体にも刃が刺さっていたかもしれない……蛇骨はぞっとした。カラカラ、と本体の刀から飛び出た十枚の刃が、折り重なるようにして蛇骨の足元に落ちる。見れば、痩せた月のような刃がそれぞれ先端で重なり合い、何枚もの「刃」として一つの刀を形成していることがわかった。蛇骨は勿論、このような業物を見た事がなかった。
「な……何だよこの刀ッ!?」
「それは普通の刀じゃねえ。仕込み刀だ。下手に扱えば、てめえの体もばっさり斬られることになるぜ。せいぜい、上手く扱うことだな」
男は右肩を抑えた。傷口を覆った手からは、血が溢れ出している。自分を睨みつける男に、蛇骨は「お互い様だぜ」と未だ包帯の巻かれた左足を踏み込んだ。
(あの仕込み刀は)
無茶苦茶に扱えば、自身をも切り捨ててしまう恐れがある諸刃の剣。しかし「上手に」、無茶苦茶に扱えば絶大な効果を生む刀――。何せ手首で振るうだけで、刀が飛んでいくのだ。どれだけ離れていようとも関係ない、遠方から多数の敵を薙ぎ倒す事の出来る刀。一見すると変わった武器にしか見えないため、敵を油断させることも出来る。しかしその扱いは獰猛な獣を従える如く難しい。この刀が殺した唯一の人物とは、以前興味本位でこの仕込み刀を振るった者だ。その男は刀の軌道を誤り、自身を切り刻んで絶命した。それ以来この刀は恐れられ、城の宝として飾られているだけだったのだ。
だが……目の前の優男は、もしかしたら。
曲刀を警戒し次の手を逡巡する男に、蛇骨は自分に恐れをなしたと思った。そして刀を再び構えようとしたその時――。
ドオンと一際大きな音が、耳元で聞こえた。
驚く蛇骨と男が一斉に視線を外に向けると、……障子越しに橙色のうねる影が見えた。それを炎だと認識すると同時に、すぐに障子が燃え失せ、部屋の中に鬱陶しい程の熱風が押し寄せてくる。むわっとした熱さは同時に、黒い煙と、人の焼ける異臭を運んでくる。蛇骨は袖で口元を抑えた。
「熱ぅッ! れ、煉骨の兄貴、おれまでぶっ飛ばしちまうつもりかよッ!?」
何処かにいるであろう兄貴分に悪態をつきながら、蛇骨は走った。
「! 待ちやがれ!」
未だ激しくない場所の炎をかきわけて、蛇骨は庭の置石を踏み台に屋根にあがった。左足に鈍い痛みが走ったが、気にしている暇はない。男が後ろから追ってきているのだ。立ち止まるわけにはいかなかった。