「……お前……!」
首にあてている爪と反対の腕で、頭から被っていた布をおとされた。薄く化粧を施し、小綺麗に仕立てあげられた蛇骨の顔が男の前に露になる。曝け出された蛇骨の顔に男は些か驚いたらしく、目が少しだけ見開かれた。それから男の目線が、蛇骨の左脹脛に移る。
「……てめえ、誰かと思えば戦場で俺に刀を向けた奴じゃねえか」
その言葉で、蛇骨の疑惑は確信に変わる。
やはり、昨日戦場で合間見えた傭兵だ。おれの足に傷を負わせた、あの男……!
「しかもまだ童じゃねえか。あん時ゃよく見えなかったが、ガキが勇ましいもんだ」
「うるせえよ……ガキだろうと何だろうとてめえには関係ねえだろうが」
首に突き立てている方とは逆の鉤爪が、蛇骨の頬を撫ぜた。
「いい顔だ」
冷たい鉄の触覚に蛇骨が思わず眉を顰めると、男は面白気に笑った。
「俺を初めて見た奴は、大抵そういう顔しやがるぜ。さっきまでいなかったのに、何処から?っていう顔だ」
「ああ聞いてやるぜ。……何処から出てきやがった? それに、医者は何処へ」
「何処からでもねえ。俺は俺だ。医者は俺だ」
男の突飛とも思える発言は、蛇骨の瞳をさらに大きく開かせた。
そんな馬鹿な。体格年齢は似ているものの、表情といい、まとっている雰囲気といい全く違う……それが、同一人物だと?嘘だと瞬時に思ったが、しかし疑いようがない。服装も一緒なのだから。
「……てめえ、さっきまでいた……お医者様なのか?」
「信じられなくても仕方ねえけどな。俺はまぁ、もう一つの人格が体の中に在るってわけよ」
「もう一つの人格、だと? ……そうか、それで」
一つの体に、二つの人格。一つは医術の巧みなお医者様。もう一つは、鋭い爪を使いこなす屈強な男……なんともまぁ、使い勝手のいい奴だ。道理で、菊池家は対等におれたちとやっていけたんだ――この男が戦場で戦い、同時に兵の傷を癒していたんだ。戦術・癒術、同時に的確な助言を出来る奴がいればそりゃあ百人力だろうよ。全く、便利な奴だぜ……ただ忍び込んでお医者様を殺すだけだと思ってたけど、すげえ収穫を得たぜ。けどまず、それよりも。
「……そろそろどけよ。重てえだろうが」
「それがいきなり人を切りつけた奴の言うことかよ。まぁいい。昨日の決着をつけようじゃねえか。といっても、俺の一人舞台だがな」
爪の切っ先がちくりと首にあたった。もう少しでも力が入れられれば、きっと自分の首は串ざされるだろう――どうしようもない体格差。乗りかかった男の重さで、息をすることすら苦しくなってきた。体の上に乗られているため身動きは出来ない。先ほど跳ね飛ばされた小刀は手の届かない所。傍から見れば、絶望に他ならない状況だろう。
(……死ぬ、のか?)
今はもう、死に怯えることはない。自分たちより、自分よりも強い奴なんていないと自負出来るまでに強くなったから。でも。
――心の奥に潜んでいた思いが、胸の中でざわめく。
あの時と同じ光景が、浮かんでくる。
「……何笑ってやがる」
男も気がついたらしい。自分がこういう場面に遭遇すると、自然と、笑みを浮かべてしまう癖に。危険であればある程、何故か相手を気味悪がらせる笑みを浮かべてしまう悪癖に――。男も蛇骨の笑みに、警戒心を抱いたようだった。
「……この城、武骨だよなぁ」
「何だと?」
「お侍さんたちはむすっとしていて、武器も豊富にあって。本っ当、娯楽なんて戦だけだろ。今わかったぜ。女中共が面隠してんのは、お侍さんたちと“そういう仲”にさせねえようにだな。惚れちまってまぐわいあってちゃ、いざって時に示しがつかねえ。全く禁欲的で素晴らしいもんだ」
「何が言いたい」
鬼のような顔の男が、怪訝そうに眉を潜めた。その言葉を、『待ってました』とでも言わんばかりに、蛇骨はにたりと笑った。まるで、男を挑発するかのように。

「……な、“お医者様”。おれを暇つぶしに抱いてみねえ? その辺の女より、よっぽどイイと思うぜ」

腕を緩やかに突き出し、肉の無い頬から適度に焼けている逞しい首元を通過して顎を撫ぜる。そして、“男が好きな”笑みを浮べてやった。極上の遊女のそれと負けないくらい、否、太夫とて出来ぬような至極の笑みを。蛇骨は女嫌いだったから遊女など“一匹も”出会ったことはなかったが、それでも自分の婀娜は全ての男を振り向かせることが出来ると自負していた。
そして自負は、目の前の男を見ていれば確信へと変わっていく。
「……これはこれは。ただの猫かと思ったら、『商売』をする猫とはな」
蛇骨のその言葉を聴いても、男は微動だにしなかった。口の端を持ち上げて、少し笑っただけ。けれども自分にはわかる。自分の経験から言わせてもらえば――確実に、平静を崩している。自分の心の内を探るかのような、動揺している色が目に宿っている。気取られないようにしているのだろうが、お見通しだ。抱くか抱かないか迷っているのだ。くつくつと、男に気づかれない程度に喉で笑った。
――ああ全く、面白い。これだから男は。
「悪いがな、俺は男には興味ねえ」
「まあそう言うなって。最初は皆お前と同じように言うんだぜ、俺は男は嫌いだ、女が好きだってな。けどな、一回おれの体を堪能した男共はみぃんな、おれを離そうとしなくなるんだぜ。一度だけって話だったはずなのに、何度も突き立ててきてよ、おかげで腰が痛くなるの何のって」
クク、と蛇骨は笑う。目の前の男の瞳が、一瞬揺らいだ。
「……全く罠らしい罠だ。そんなことになれば、俺もそうだが、おめえも敵と通じた間謀としてただじゃすまねえんじゃないのか?」
「だからこそ、だろ。あっちに帰ったら無事じゃすまねえかもしれねえ……だからこそ、最期くらいイイ思いしたいって気持ちわかんねえかなあ」
だが――と男が口を開きかけたのを、蛇骨は人差し指で制止した。饒舌なのは、冷静な心を失った証拠。まるで、初物に手を出すことを戸惑っている初心な男を誘導する遊女のように。蛇骨は艶笑を浮かべた。
「こーゆーのは理屈じゃねえよ。ヤるか、ヤらねえか。そんだけじゃねえ?」
ふ、と男は息をついた。
「――乗ってやろうじゃねえか。お前の言葉に」
まるで言い訳のようにそう告げ、男は蛇骨の首筋に緩やかに顔を埋めた。待望していたかのように男の背に手をまわしながら、蛇骨は横目で障子戸の隙間から月を眺めた。
先程中天にあった月は、西に向かって傾きかけている。『時間』までもう少し――“菊池家自慢の立派な松の木に、実が宿るその時まで”。
蛮骨が何度も言っていたその言葉を頭の中で繰り返しながら、蛇骨は感じていた。
おれの勝ちだ、と。