その日、取材帰りに露伴はオーソンの前をたまたま通りかかった。
肩からかけられたスケッチブックには、今日の収穫物がたくさん描かれている。これをどう漫画に生かしていくか――そんなことを考えながら歩いていたので、いきなり小道から腕を引っ張られた時はらしくなく驚いた。
ここから腕をひっぱるのは、一人しかいない。鈴美……数日前に知り合った幽霊の少女、恩人の“お姉ちゃん”だ。
真実を知った後、何となくここを通りにくく(無意識に)避けていたのに。歩きながら考えごとをしていたせいで、忘れていた。最も、鈴美の方も、なごやかに世間話をするでもなく露伴以上に慌てた様子だった。「忘れてたの、今思い出したの」と息をきらす彼女に何を、と問う暇も与えてもらえず。気がつけば、街の南方のある坂道まで来ていた。
ゆるやかな坂が続くその道は、桜の木がずらりと連立している。
そういえば、ここの桜並木は素晴らしいと聞いたことがあるな。杜王町の春の名物の一つとして、一度は見ておくべきものだろう。
最も、もう少し月日が早ければ、の話ではあったが。

「あーあ……やっぱり、散っちゃってるわね」
「そりゃあそうだろう。遅すぎる。もっと早く来るべきだったな」
「仕方ないじゃない。さっき思い出したんだもの」
桜の花弁は枝に申し訳程度に残っているのみで、桜の花弁が舞うような美しい風景は見られそうもない。散られた桜の花弁は、多くの人間に踏まれて汚く散らかるのみ。こうなっては、花鳥風月も何もないな……絵にもならない。
桜並木があることを思い出し一瞬スケッチブックを構えたが、すぐにそれを肩にかけなおした。それでも隣の鈴美は視線を下ろそうとする様子を見せない。まるでその瞳の奥に、美しい桜が見えているかのように。

「この坂道の桜はすごく綺麗で、露伴ちゃんすごく好きだったのよ。私が一度つれてきてあげたら、すっごく気に入っちゃって、結局葉桜になるまで毎日ここに来ていたの」
知らないよ、そんなこと――花のない桜木を見上げながらうっとりと話す彼女の姿を見れば、真実ではあるのだろうが。あいにく今の自分は、花を愛でる風流な面はそれほど持ち合わせてはいない。漫画で必要になった時に見に来る程度だ。
「だから全部散っちゃった時は、露伴ちゃん本当に落ち込んでたのよ。また来年も見ようね、なんて言ったらすごく喜んでいたわ」

そして、その“来年”は来なかった。
彼女は何も言わない。昔知り合いだったという真実を露伴が知ったということを感じ取ったのか、鈴美は端々で昔の話をするようにはなってきたが。今でも「例の事件」だけは全く触れない。昔のことにしても、他人事のようにぽつりぽつりと言うだけで「覚えてる?」とか、「忘れちゃったの?」とは絶対に言わない。
……まるで、

(覚えていない僕に、安心しているかのようだな)

命がけで助けたというのに、当の本人は忘れているだなんて。
僕だったら怒るぜ。勿論、幼かったから仕方がない…という理由は適当だろう。いやしかし、それでもだ。命をかけたんだぜ。僕がその立場だったら、恩知らずだって一言文句言ってやりたいくらいだ。せめて物心がついた頃あたりに真実を知らされ、彼女の墓参りに行くくらいはしても良かったんじゃないか。そう考えたっておかしくないだろう。
それなのに、彼女は何も言わない。
これが漫画だったら、これから劇的に彼女のことを思い出していく……という展開があるかもしれない(最も、そんな安っぽい漫画の展開を露伴は嫌っているが。そんなのに喜ぶのは、陳腐な読者だけだ)。しかし残念ながら今の所、さっぱり記憶は戻らない。これから戻る気配もない。

これは全くもって、漫画よりも酷い展開だ。

どの地点で僕に気づいたんだろうな。
傷を見せた瞬間では、あくまで“たまたまそこに居合わせた生きている人間”に頼んでいる様子で、僕のことに気づいていなかったように思うが。僕に気遣って、他人を装おうとしたのか?それでも、「露伴ちゃん」なんて親しげに呼べば僕が訝しがることも予想できただろうに。
……変な女だ。
それでも、それでも。きっと幼い頃の自分は、この少女を慕っていたのだろう。

「露伴ちゃん。きっと、来年は一緒に見ようね」
来年だと?これから1年間、まだこの街に居るつもりか?事件の解決をこの僕に頼んでおきながら、そんなに時間がかかるとでも侮っているのか?
いつもの露伴ならばそんな嫌味の一つでも言っていただろうが、その時だけは何も言うことが出来なかった。ああ、と曖昧に答えるだけで。
そうなればいい――心の何処かでうっすらとそう思っていることに、全く気づくことはなかった。