深い暗闇が外を覆い、皆が夢の中へと誘い込まれた頃。 じじ、と低い音をたてる蝋燭の下で、特に何をするわけでもなく睡骨は白い障子を見つめていた。
奥の部屋では、仲間達が眠りについている。最も、二人ほど足りないが。だからといって別段、その二人が帰ってくるのを待っているわけでもない。ただ、眠れなかっただけだ。ただ障子を見つめているだけだ……障子にうつった自分の影が、蝋燭の炎で揺らいでいた。
ふと、考える。何故眠れないのだろうか、と。
けっして不眠症なわけでもない。睡眠が足りているわけでもないし、第一、昼間は戦いで充分働いた。体は疲れているはずである。そうこう考えるうち、何かが足りないのだろうか、という考えにも達した。
何が、かはわからない。布団に入って無理にでも目を瞑っていようか。そうしたら、いつかは意識が消えていくだろう。睡骨が仲間達の眠っている部屋に移動しようか、と考えた時、足音が聞こえた。どうやら、出かけていた二人のうち一人が帰ってきたらしい。眠っている仲間たちに気を使わない、ぺたぺたという軽い足音。障子を開けると、思っていた通りの人物が歩いて来ていた。
「蛇骨」
「あ?何だよ睡骨。まだ起きてたのか?」
何処へ行っていたのか、なんて愚問は聞く気はなかった。どうせ何処ぞの男と会っていたのだろう。蛇骨の方も別に何も言わず、睡骨のいる部屋に入った。開けても閉めようとしない憮然さは相変わらずのものだ。今更怒る気にもなれない。代わりに睡骨が静かに障子を閉めた。そして、蛇骨の方に向きかえった。
「おめぇ、その首はどうしたんだ」
蝋燭の明かりの元でやっと気づいた。蛇骨が首を押さえ、何だか恨めしそうな顔をしている。
「……今日会ってた男に女がいたんだよ」
その一言だけで、何となく全てが飲み込めた。また、女のいる男に蛇骨が手をだしたのだ。それでその女の嫉妬を買いけんかを……女嫌いの蛇骨のことだ、手加減などしなかったろう。殺したのか?と問えば、そうしてやるつもりだったが民衆が集まってきたため流石に出来なかった、と何処か悔しそうな声。ひとまず安堵したものの、それでも「あの雇われ傭兵達の一人が、情人を巡り女と取っ組み合いのケンカをしていた」と噂をたてられる自分達――主に蛮骨と煉骨――の苦労を思うと、睡骨は蛇骨に対し呆れる他なかった。
「ちっ、あの女おれに傷をつくりやがって――長ぇ爪してっからだ――ちくしょう、まだ血が滲んでやがる」
「顔じゃなかっただけまだ良かったと思え」
「顔だったら民衆共がいようが、すぐにでも蛇骨刀で切り捨ててやらぁ」
手鏡を覗きこみ、ひたすらぶつぶつと雑言をはいている。蛇骨が首から手を外すと、確かに僅かだが血がにじみ滴っていた。重症でもないが、放っておけば膿んでくるかもしれない。不本意だが、放ってはおけなかった。ぶつぶつと文句を言う蛇骨から離れ、隣の部屋から袋を取ってくる。睡骨の手には、いくつかの木綿の包帯。それと、酒が握られていた。
「治療してくれんの? どうせなら、医者に変わればいいのに」
「医者は血が苦手だろうが。それに、お前なんざ治療すっかよ。……動くなよ」
酒を木綿に滲み込ませ、軽く拭くように首に触れた。そのひやりとした酒の感覚と、傷口に触れる痛みから蛇骨が体を捩じる。
「うわッ冷てぇっ!酒か!? しかも滲みるッ!おい、もっと丁寧に……!」
「温めるのも面倒だ。今日のところはこれで我慢しとけ……ってほら動くな!」
蛇骨を鎮め、ちゃんと座らせる。ふぅ、と一息つくと、もう一枚の木綿布を袋から取り出した。そして、もう少ししておくか、と酒を木綿に浸そうと手を伸ばす。しかし、さっきまであった場所に酒はなくなっていた。見ると、蛇骨が酒を瓶ごと飲んでいた。いい飲みっぷりといえば、いい飲みっぷりなのだが。
「これ、いい酒だなー! 大兄貴が買ってきたのか?」
「お前……それ飲んじまったら消毒できねぇだろうが」
「大丈夫大丈夫、もう大丈夫〜」
空の瓶を見て出された睡骨の呆れ声にもなんのその、といった感じだ。……完全に酔っている。そんなに強い酒だったのだろうか?蛇骨は頬を紅潮させ、ふらふらと体を揺らし始めた。蛇骨はそんなに酒に強い方でもない。蛮骨と一緒に飲んでいると、大抵蛇骨は先に酔いつぶれる。口調も、呂律のまわっていない感じだった。
「おれ、もう寝る〜」
「おい、まだ途中だぞ。そのままにしたら傷が化膿する」
どこかに他の酒はなかっただろうか、と辺りを見渡す。すると、首にいきなり重みを感じた。振り返る間もなく、蛇骨は後ろから顔を覗きこませた。
「おい蛇骨」
「大丈夫だって〜こんなの、舐めときゃ直るぜ〜」
へらへらした、されどどこか艶かしい表情が眼前にある。ほんのり赤くなった蛇骨の虚ろな目が、情欲を掻きたてる。この表情が、蛇骨は酷く上手だ。そしてそれに、自分はいつも誘い込まれている。
「……そうか」
振り向き様に蛇骨の背に手をあて、首に顔を近づける。そして、躊躇いもなく舌を傷に滑らせた。つつ、と伝うように舌を這わせる。細く、白い首。女にも似たそれから、段々と舌を降ろしていく。自然に、手が蛇骨の着物を肌蹴させていた。
「……ぅんっ……」
蛇骨の僅かな嬌声で、少しだけ冷静に戻らされた。このまま行為の流れに従うのもいいかもしれない。それが一番楽であり、手っ取り早く欲を開放させることが出来る。でも、まだ一人帰ってきていないのだ。もしも、その人物にこんな所を見られたら。帰ってきていないのが一番蛇骨を思っている人物なだけに、睡骨は首から顔を離した。そして、手早く木綿の布を首に巻きつけていく。
「何だよ、終わりか……?まだまだこれからだってのに……」
蛇骨は酔いながらも不服なようだ。未だ睡骨の首にしがみつき、続きを要求する。
「……続きはまた今度だ」
巻き付けを終え耳元で囁いたが、蛇骨からの反応はない。睡骨の首にしがみついたまま、眠ってしまったようだ。すうすうという規則正しい寝息が聞こえてくる。睡骨の苦労も知らずに、いつの間にやら幸せそうに目を閉じていた。
(……ったく)
本当に、蛇骨という男は勝手な男だ。面倒くさそうに蛇骨を抱き上げると、仲間達の眠る布団に静かに降ろし寝かせた。本当に幸せそうな顔をしている――恨めしいほどに。こっちは、自分を抑えるのが大変だったというのに。元の蝋燭の近くの位置に座ったとき、自分が次第に眠気に襲われかけていることに気づいた。先ほどまで、全然といっていいほど眠くなかったのに。
――蛇骨が帰ってきたのを見て安心したのだろうか?
我ながら馬鹿な考えを、と被りを振った。そうして「大兄貴はいつ帰ってくるのだろう。このままやはり眠ってしまおうか」と、睡骨はただ白い目の前の障子をまた見つめた。