「っんとーに頭来たあッ!!」
自分たちと一緒に落ちてきた小枝や葉が、ぱらぱらと地に散った。蛇骨は睡骨に抱かれた格好のまま、があ、と暗闇の夜空に大きく猛った。

先ほどの瞬間。何とか落ちきる前に、睡骨は蛇骨を抱え受身をとることが出来たのだが、状況が更に悪くなったことに変わりない。あまりこの崖は高くなさそうだが、つながった手の状態では上ることなど勿論出来ない。
今の状況も最悪だが、もし今兄貴分たちが自分たちを探していたらどうしようとも考えると、頭が痛くなるばかりだった。
いまさらながら、蛇骨の言うことなど聞かなければよかった……と後悔してしまう。
「てめえ、今おれの悪口言わなかったか?」
「言ってねえよ」
何かを感じたのか睡骨をぎろりと睨みつけ、胸の中からごろりと横に転がる。先ほどまでの張り詰めた糸が一気に切れたのか、蛇骨は呆けたような顔つきで夜空を見ていた。
「……疲れた」
最もな意見だった。第一、今日は朝から山に登ってきていたのだ。それから蛇骨の騒ぎがあり、今まで走りっぱなしで。疲れないはずがない。それに比べ、騒ぎまくっていた自分たちと違い空は穏やかで静かで澄み切っていて。
きらきらと光る星たちは、まるで自分たちを笑っているかのようだった。
「やっぱりあん時、大兄貴についてきてもらえばよかったんだ」
「……」
「きっと鏡もすぐ見つけて、あんないけ好かない女の霊なんて一発でやっつけてくれた」
「……」
「お前と違って大兄貴は強いから」
「……」
蛇骨が空に、まるで独り言のようにつぶやくのを睡骨は黙って聞いていた。何か言い返せばいいのだが、言葉が何だか出てこない。蛇骨もそれを不審に思ったのか、寝転んだままの格好で顔だけを睡骨の方に向けた。
「何か言い返せよ」
「……」
「ま、いいけどさ。おれも疲れたしー……うーさみぃ」
体を丸め、まるで猫のように着物の中に顔を埋める。普段の大きな態度とは比べようにないほどのその小さな体。丸まった姿から、細い腕だけが自分と繋がって伸びていた。
「おい、寝るのは構わねえが風邪引くんじゃねえぞ。お前に何かあったらそれこそ大兄貴に何言われるか」
「じゃあ、暖めてくれる?」
繋がっている腕が、ぴくりと震えたような気がした。着物袖に隠れた顔半分から、大きな蒼い目が婀娜めいて睡骨を覗いている。暗闇でも輝いているかのように見えるその印象的な眸に、再び言葉を失った。一瞬のような、永遠のようなその時間――それを先に破ったのは、蛇骨だった。
「……なんてな。おれ少し寝るわ……」
どこか、その声は自虐的に聞こえた。その眸を再び閉じ、蛇骨が体を捩って睡骨に背を向ける。
(……ったく)
辺りは全く静かになり、睡骨も目を閉じた。 あの女の霊は何処へ行ったのだろう。ここから帰ったら、大兄貴たちに何て言おう。これは、外れるのだろうか。いろいろと考えることが多かった。
「睡骨」
いきなりの蛇骨の声。一瞬、寝言かと思ったほどだ。体は動かないし、声は小さい。しかも、背を睡骨に向けたままだ。
「……何だ」
「悪かったよ」
「は?」
「こういう関係の強制は勘弁してえけど、でも、一度きりならいいんじゃないかって思う。
……ありがとな」
少し間をおいての一言。
――今、こいつは何て言った?
信じられないほどの蛇骨の殊勝さに、睡骨は返答が出来なかった。そうしている間に蛇骨は本当に疲れていたのか、すぐに小さな寝息をたてはじめていた。
小さな背中。細い体。繋がった腕。 共有していて、そしていつもより近くに在るということ。いつもじゃ、気づかなかったこと。ああ、今更。……こんな時に。
少し左手をひねると、簡単に蛇骨の手がとれた。丸みを帯び、比較的小さな手。簡単に、すっぽりと自分の手の中におさまってしまうそれ。暖かい。蛇骨は眠ってしまうと滅多なことでは起きない。現に自分の指と絡めとっても、ぴくりとも蛇骨からの反応はなかった。
一度寝入ると朝まで起きない――まるで本当に子供のようだ。
触れている指先から、体内に何かが入り込んでくるような感じがしていた。
可愛い、綺麗、美しい。そんな言葉では一概に片付けられない、蛇骨という男。言葉に出来ないものを持っている、そんな不思議な男。
ああ、そうか。だから、そうなのか。
体を少し寄せて、絡め取った指先を強く握り締める。普段はとても煩くて、男好きで、自分勝手で、わがままで、調子良くて、自分に偉がって。言い出したらきりがないほどの奴なのに。霊に怖がったり、寝顔は無邪気だったり、ときたま見せる殊勝な態度。色んな所で、振り回されている自分がいる。
(面倒くさい、と思ってたのに。俺も随分と都合のいい男になったもんだ)
額に手をあて、空を仰ぎ見た。刹那とも、永遠とも思えるこの時間。こうやって近くにいられる時間が、いつまで続くのか……こんな拘束の強制はごめんだ。そう感じていたはずの思いが、いつの間にやら萎んでいる。そう思うことが出来るようになったのも。

がさり

急に前方の茂みから音が聞こえた。
ゆっくりとそちらへ目をやる。視界に白い服の女を捉えても、睡骨はなぜか爪を取る気になれなかった。
「……主の想い人は……」
髪をだらりとさせ、相変わらずのねっとりとした声。
しかし、暗闇の中でもはっきりと見えるその姿を、睡骨はもう不気味とも何とも思わなかった。何も感じなかった。睡骨は薄く笑うと、蛇骨の方へと視線を変えた。
「想い人か。……おかしなもんだ。 俺たちはこういう仕事をしてる。何かを言ったって、こいつにとっては枷になるだけ。後はただ、消えてくのみのものなのにな」
これ以上の発展はない。多分、想って、想って、そうしていずれ共に死んでいく。外に出すことは“許されない”もの。
「俺は”これ”を、墓場まで持って行くことになる」
自分は霊相手に何を言っているんだろう。
ただ、もう決して言うことはないであろう言葉を、誰にでもいい、吐いておきたかっただけなのかもしれない。言葉には出来ない。それを、今だけでも、一回だけでも、口にしておきたかっただけなのだろう。そうしないと、嘘になってしまいそうだから。口に出来ない不安――それを、少しでも解消しておきたかったのかもしれない。
「……主の想い人は、それか……」
消え入りそうなか細い声。明らかに先ほどまでとは調子が違った。禍々しい雰囲気が、感じ取れない。睡骨は女の問いに、「応」とも「否」とも言わなかった。けれども自覚だけはしていた。はっきりと認識していた。こうなって、やっと認識出来るなんて。幸運というか、不幸というか。
「……そうか」
女が顔を上げた。だらりとした前髪の間から、暖かな灰色の眸。何処か優しさを彷彿とさせるそれが、睡骨を捉えていた。

「……それで良い。気づくことが出来れば、……何だって出来る。主の想いは、きっと届く。きっと、……きっと」
「まぁそれはないな」
この男に限って。
自虐的な睡骨の言葉に、女の目が細まる。それと同時に、睡骨は左腕の圧迫感がとれるのを感じた。さらさらと、自分の左腕、そして蛇骨の右腕から髪が地に流れ落ちていく。完全にそれが腕から落ちると、睡骨は左腕をぐるぐるとまわしてみた。特に後遺症はない。ちゃんと動く。
「……すまなかった」
その声を最後に、女の姿形は何処にも見当たらなくなった。 後はただ、風がそよそよとそよぎ。女のいた位置に、小さな白い、蝶をあしらった鏡が落ちていただけで。

その後、睡骨は起きない蛇骨を抱え崖を上った。
そこから何とか歩いているうちに、野営地にも戻れた。仲間たちは皆、起きてくれていた。蛮骨は、眠っている蛇骨を抱える睡骨に何も言わなかった。 とりあえず解決したのと、蛇骨が無事だったことで何も言わずにいてくれたのだろう。煉骨にはたかれ目を覚ました蛇骨は睡骨に抱かれていることに気づくとキイキイ叫んだが、「あの女は消えた、だからこそ髪が解けた」 という睡骨の説明を聞くと確かに安堵していた。そして、それ以上は何も聞かなかった。
それから軽い仮眠をとって朝を迎えると、七人隊は山を超え、寺へと急いだ。

寺に着くと、早速二人は祓ってもらった。もう何もないと思うのだが、これは蛇骨の希望からだった。少しでも清めてもらって、これからも霊などから避けたいらしい。
念入りに、と冠者聖に詰め寄る蛇骨を放って、先に祓いが終わった睡骨は寺の老住職にあの霊のことを聞いてみた。
結局、あの霊は何をしたかったのか、と。
「あの霊を怖がっておるのは、向こうの村の者だけじゃ。あの霊は人を殺したことなど一度もない。ただ、何故かは知らんが男女であの霊に遭遇した者たちは必ずといっていいほど恋仲になる故、この辺りでは恋愛を司る神とされておる」
「恋愛だと?」
「ほほ。お主たちはどうであったか」
そう言って年老いた住職は白く長いひげを揺らし、まるで睡骨を茶化すかのように笑った。

「霊が、恋愛の神ねえ」
蛇骨は未だ祓い終わっていない。(普段信仰心のかけらもないやつが、調子のいいモンだ、と皆が笑った)やっと自由になった左腕を見つめる睡骨に、蛮骨が近づき声をかけた。
「大兄貴」
「面白い霊もいたもんだな。そんな奴だったら、俺も蛇骨と一緒に行けばよかった」
「何を呑気な……」
そういいかけて、はたと気づいた。
――『行けば』良かった?
「大兄貴、もしかして俺たちが昨日抜け出すの気づいていたのか?」
「ん? あったりめーだろ。それくらい気づかないでどうするよ、首領が」
さも当たり前のように蛮骨はさらりとそう言った。睡骨は、蛇骨の言った『大兄貴は強い』という言葉に改めて強く同感せざるを得なかった。
……怖い。やっぱりこの人は、怖い。
「じゃあ、何で気づいてて行かせてくれたんだ?」
「お前らの問題だからなー。お前らで解決させてやろうっていうことさ。蛇骨もおめえも強いし、俺がいなくたって大丈夫だって思ってたからな」
「そりゃ、どうも」
信頼してくれて嬉しい。……そして、ついてきてくれなくて本当に良かった、と思う。もし蛮骨が、密かに睡骨と蛇骨の後をついてきてでもしていたら―――
あの言葉を、聞かれでもしていたら。
蛮骨に聞かれることはいい。茶化される程度だ、それは覚悟の上。だが、蛇骨の耳にも入ってしまうことだけは。それだけは避けたかった。これは、ずっと抱えていこうと誓った想いなのだから。いつかは蛮骨にはばれてしまうかもしれない。否、鋭い蛮骨にはすでにばれているかもしれない。でも、蛇骨にだけは。
「おーい、大兄貴! やっと終わったぜ〜」
蛇骨が、ばたばたと廊下を駆けてくる。やっと祓いが終わったらしい。それに気づき蛮骨がそちらを向くと、蛇骨は蛮骨の腕の中に思いっきり飛び込んだ。蛮骨もそれを受け止め、前髪に触れた。
「おう、どうだったか?」
「どうもこうもさ〜! 正座ばっかりで足が痛えよ」
「そうかそうか。じゃあ街にいったらなんでも好きなもん買ってやるからさ。煉骨たち呼んで来いよ。出発するぜ」
「やったぁ!」
嬉しそうな顔をする蛇骨の前に、ずい、と睡骨の手が出された。驚く蛇骨の前に出されたその手の上に載っているものは、小さな鏡。蛇骨はあ、といったような感じの表情になった後、鏡を睡骨から奪うと、睡骨を一睨みして踵を返していった。その様子に、蛮骨が苦笑する。
「あいつって奴は……。相変わらずだな」
「いつもあいつはあんなもんだ」
「仲良くなってほしかったんだが何も変わらなかったみたいだなあ。あいつ、“ありがとう”もなしかよ」
「いや、それならもう、……聞いた」
小さくて、もしかしたら寝言だったかもしれないけれど。確かに、何かはお互い変わったんだと思う。それがきっと、表面に出ないだけで。

それだけでも、何かしら――価値はあったんだと思う。