「出たああああああ!!!」
辺りを切り裂くかのような蛇骨の声。
その高さと大きさに、森の木はざわざわと揺れた。
その声のあまりの大きさに、野宿の準備をしていた仲間達皆が何だ何だと集まってくる。当の本人の蛇骨は、がたがたと震えながら蛮骨にしがみついていた。その姿といったら、まるで雷に震える猫のようだ。戦場での気丈さとのあまりの違いに、皆が笑いを必死でこらえる。蛇骨は顔を背けているので、そんな仲間たちの様子に気がつかない。唯一、しがみ付かれている蛮骨は優しく蛇骨に話しかけた。
「よしよし。何が出たって?」
「ば、ばばばばばばば……っ」
「は? ばばあ?」

「化けモンだよーーーーーッッ!!!!!!」

始まった……。皆がそんな気持ちをこめ、はあと溜息をついた。それが気に食わなかったのか、蛮骨にしがみついたまま蛇骨は仲間に歯をむいた。
「何だよおめえらそのため息ッ!」
「そろそろ言い出すかと思ってたからな」
「な……本当だって、本当におれ見たんだからっ」
「はいはい」
嘘じゃねえ、と騒ぐ蛇骨の頭を、蛮骨は二、三度軽く撫でた。
この弟分はこの類のものが本当に苦手なのだな。そう苦笑する姿を表に出せばまた蛇骨が煩い。顔に出さないように必死に隠した。そして、この山に登る前に村にいた老人から言われたことをふと思い出した。

昨日まで仕事をしていた城から離れ、七人隊は城下にあった村で昨日一晩を過ごした。山を越えたら大きな寺と街があるとそこの村人から聞き、朝から山に登る手筈をしていた時。それをどこで聞きつけたやら、一人の老人がぽつりと言ったのだ。
あの山は女の霊が出るという、お気をつけなさい、と。
よくある話だ、と皆が思う中。蛇骨だけはその話を真に受け、一人あの山に登るのは嫌だと言い張った。勿論、それが通るはずもなく「大丈夫に決まってる」という蛮骨の強い言葉に押され、蛇骨は最後には山に登ることを渋々承諾した。しかしやはり心の奥底ではまだそれを気にしていたらしい。そうして、今に至るというわけだった。
「恐怖からくる幻覚だろう」
先ほどの蛇骨の声に耳を傷めたのか、煉骨が耳を押さえながら冷たく言い放つ。
「ひでえ煉骨の兄貴! 本当に見たんだよ、髪をだらーんって伸ばした女が“主の想い人は……”って禍々しくおれに言いやがったんだ!」
「そーいやあのじーさんもそんなこと言ってたような」
あまりにしつこく蛇骨が山に登るのを嫌がるため、その幽霊とはどんなものなのか聞いたのだった。その老人の話によると。
若い女が髪を垂れ流し、“主の想い人は”と問い掛けるのだ。答えるのに戸惑うと、首にその長い髪を巻きつけ絞めあげる……万一それから逃げ出したとしても、女はしつこく追い回してくるそうだ。
確か、そんなことを言っていた。ちなみに、この追記によって蛇骨を更に怖がらせる結果となったことは言うまでもない。
「ふーん、本物かもしれねえな」
「だろ!? 本当にこの目で見たんだから……」
「じゃあもう俺の傍にいろ。そしたら出てきても俺が始末してやっから」
その言葉に、蛇骨が飛びつくように蛮骨の胸の中に顔をうずめる。反動で、蛮骨がつけている胸当てと蛇骨が着物下に着込んでいる胸当てがコン、と小さな音をたてた。途端、蛇骨がはっと自分の着物の中に手を入れる。そして暫くその手を世話しく動かせた後、さあ、と顔の血の気をひかせた。
「何だよ、どうした」
「鏡がねえ……」
「あ? 鏡?」
「さ、さっき落としたんだ……!」
「はぁ?何で解んだよ」
蛇骨によると。先ほどまで薪集めをしていた蛇骨は、ちょっとしたことで先程、木の枝で頬を傷つけてしまった。それで鏡を取り出し、傷を確認したら。その背後に、女の幽霊がたっていたのだという。走ってその場から逃げ出す間に、落としてしまったのだろう。まるで命でも落としたかのように、蛇骨の顔は青ざめていた。
「何でそんなに青ざめるんだよ。探しに行きゃいい話じゃねえか」
「探しに行きゃって……! 怖えに決まってんじゃねえか!!」
まるで当たり前のことを述べたかのように、蛇骨はそう叫んだ。いよいよ面倒くさそうに、蛮骨がふう、と一息つく。
「じゃ、また街ででも買えばいいじゃねえか」
「で、でも……あれは大兄貴がおれに買ってくれたやつで……めちゃくちゃ気に入ってたんだ……」
蛇骨がしゅん、と顔を俯かせる。その様子に、蛮骨は根負けしたように肩を竦めた。
「仕方ねえな。おい睡骨、探しについてってやれ」
いきなり話を振られ、睡骨は少しばかり驚いたようだったが、顔は無表情だった。何も言わずに蛇骨に近づき、その腕をとる。そして、一気に引き立ち上がらせた。
「わっ」
「案内しろ」
まるで蛮骨から引き離されたようで、蛇骨が睡骨を一睨みする。しかし、今そんなことをしていても仕方がない。蛇骨ははあと息をつくと、睡骨の前に出、茂みを進みだした。その後に、睡骨が続く。蛮骨は頑張れよー、とその背中を見送った。

案内せずとも、蛇骨が走ってきた道は解った。周りの木々が、ばっさりと切られたような跡がそこら中に残っていたからだ。きっと乱心中に無意識に蛇骨刀を振り回したのだろう。本当にはた迷惑な男だ、と改めて睡骨はそう感じた。
「あ、ここだここだ。ほら、薪」
そんな道を進んだ所に、本当に放り投げられたように薪がばらばらと落ちていた。どれだけ蛇骨が慌てていたかがそれでも伺える。その薪を集め、その近くをきょろきょろと見渡した。とりあえず見える範囲に、鏡は見当たらない。先ほどまで歩いてきた道にも落ちてはいなかった。となると、どこかに放り投げたと考えるのが一番妥当だろう。
「じゃあ、おめえはこの辺りを頼むぜ。おれはあっち見てくるからよ」
「……逃げる気じゃねえだろうな」
「に、逃げるかよ!」
半ば髪を逆立てながら蛇骨が叫ぶ。そして、ふん、と茂みに消えていった。あれが人に物を頼む態度なのだろうか。睡骨は蛇骨の傍若無人な様子に呆れながらも、近くの茂みに目をやった。探そう、と手を伸ばした所で気づく。
……そういえば、どんな鏡なのかを聞いていない。
それを聞こうと蛇骨の方向に振り返ったとき、睡骨はあらぬものを見た。
先ほどまでいなかったはずなのに。長い髪をぬらりと顔面にたらし、うつむき加減で睡骨を見る女――白い着物が、まるで死に装束のようで。ぞくり、と背に悪寒がはしった。その女は、長く垂れた髪のせいで顔すらまともに見えない。ただ、弧を描いた濡れた唇だけがかろうじて髪の間から見えるだけで。
「……主の想い人は……」
「……おめえが噂の幽霊か」
蛇骨と別れてよかった、またあいつが騒ぐだろうから。後は蛇骨がこっちに来ないうちにこいつを何とかすればいい。睡骨は腰からぶら下げていた鉤爪をとった。それを構えても、目の前の女は微動だにしない。
確か、答えなければ襲ってくるのだったな。睡骨が勢いをつけて爪をその女へと振り下ろす。すると、その女はふわりと浮きあがるかのように後退りした。そして、にたりと口で弧を描く。真っ赤な紅が、不気味だと感じた。
「主の想い人は……おらぬのか」
それに答えようと口を開いたとき、ばさあと目の前を黒いものが覆った。――女の髪の毛。跳び退ろうとしたが、遅かった。女の髪は睡骨の腕や腰をとらえ、睡骨の動きを完全に封じた。
「ぐっ」
「想い人を持たぬ寂しき者よ。お主に用はない……」
しゅるしゅると、その髪が今度は睡骨の首へと伸びる。首をとらえると、ぐ、と一気に締め上げ始めた。それから逃れようと、睡骨がもがく。すると、こつんと何かが足にあたった。
先ほど蛇骨がまとめ置いた、薪。
力を振り絞り出来るだけ後ろに下がると、睡骨は勢いをつけてそれを女に蹴り上げた。ガラガラ、と大きな音をたてそれらが散らばる。女はそれに驚いたようで、一瞬だけ睡骨から眼を離した。そして、髪が弛んだ。睡骨はそれを見逃さず、一気に力をつけて髪を振り飛ばした。勢いで、腕に絡んでいた髪が爪によって引きちぎられる。だらりと、睡骨の左腕に髪が垂れた。
「ち、気色悪ィ」
「主……」
睡骨が腕に絡んだ髪を振りほどこうとする前に、女は再び睡骨ににじみ寄って来た。そして髪を、再び絡みつかせようとする。
「同じ手が通用するかよ!」
力に物言わせ、爪をがしゃりと振り下ろす。髪はおろか、女の体をも引き裂いた。その場に女が倒れる。血も流れず、音もなかった。
「ったく……」
「おい睡骨、さっきの音何だ……」
蛇骨が不思議そうな表情を携え、茂みから顔を出す。睡骨がそれに答える間に、蛇骨はぎゃっと大声を出した。
「そ、それおれがさっき見た……ッ」
「やっぱりこいつだったのか」
「お、おめえ倒したのか?」
「……結果的にそういうことになるな」
睡骨の方を見て、更に蛇骨が声をあげる。睡骨の左腕に、未だに髪が絡みついていたのだ。だらりと、垂れているそれ。蛇骨ではないが、霊とは兎角恐ろしいものだ、と思わずにはいられなかった。
「うわあ、こいつ、っんとに気持ち悪ぃなあ」
蛇骨がおそるおそる、倒れている女に近づく。
「おい、あんまり近づかねえ方がいいぞ」
爪を外し、左腕に絡みつく髪の毛をとろうとその髪を引っ張る。途端、ぞくりと背に再び悪寒がはしった。
――髪が、腕から離れない。まるで、命をもった“もの”であるかのように。
睡骨がそれに気づき蛇骨に声をかけようとした時。蛇骨が先に、声になっていない声をあげた。睡骨も蛇骨の足元を見て、目を大きく見開けた。
女の腕が、蛇骨の足首をしっかりと握っている。ぎりぎりと、音までも聞こえてくるように、強く。
「……そうか、この者が主の想い人か……」
いやに婀娜めいた声が響く。その場に座り込んでしまった蛇骨の元に駆け寄ると、睡骨は爪で腕を切り裂いた。腕がぼとりと落ちても、女の笑い声は絶えない。蛇骨の襟首を掴み立ち上がらせると、睡骨は更に女の体を裂こうとふりかかった。しかし、その前に女は胴体だけでふわりと立ち上がり、二人に濡れた唇だけを見せて茂みへと消えていった。
「待ちやがれ!」
「す、睡骨!!」
その後を追おうとする睡骨の体を、何かが引きとどめた。一瞬、蛇骨が自分の腕を掴んだのかとも思った。……しかし、その力が尋常ではない。しかも、左甲に暖かい何かの感触。振り返って、更に睡骨は驚くこととなる。
蛇骨の右手が、自分の左手とくっ付いている。
女の髪の毛が紐のような役割をして、ぴったりと、がっしりと。
「……なんだこれは……」
「そりゃこっちが聞きてえっつーの!」
睡骨は霊を追うことを忘れ、何とか腕から髪をとろうとした。しかし、それは本当に命を持ったかのようにびくともせず。
「外れねえ……」
「んだと!? 何なんだよ、畜生!」
睡骨は普段よりも近くで蛇骨の喚きを聞くはめになった。耳もとても痛むが、それよりも胃がキリキリと痛んだ。
何で自分がこのような目にあわなければならないのだろうか。自分の力ではどうしようもない。
しかし。
兄貴分たちや仲間に言ったら言ったでどんな顔をされるだろうと考えると、更に胃が痛んだ。