それは、本当にあっけないことだった。
記憶を取り戻すのに、”何々がきっかけで”とか、”何処かを打って”ということはよくある話。
しかし、蛇骨は違った。
その日、蛇骨は久しぶりに屋敷に来ていた神楽と庭を見ていた。
あの赤子の一件があって以来神楽はここにくるのを制限されていたのだが、なぜか蛇骨のことが気になってひっそりと足を運んでいた。
一方の蛇骨は何の別状もなく、神楽とであった初日と全く変わらない、死んだような(否、もう死んでいるが)表情、態度。
季節は冬に近づき花々は枯れかかっていたが、蛇骨にはどうでもいいことらしい。
萎れた花を共に見ていたとき、ひらりと飛んできた一匹の蝶が蛇骨の指の先に止まった。そして、神楽が「その蝶、てめえが好きなんだな」とからかった瞬間。
はっと、蛇骨はいきなり目が覚めたように頭をあげた。
そして神楽も、蛇骨自身から何も聞かずして、まさかと蛇骨から一歩体を引いた。
「ここは…何処だ」
蛇骨から出た第一声で、神楽はやはりと感じた。恐れていたことが―――自分ではなく、あいつが―――起こった。
(こいつ…記憶が元に戻ったんだ)
神楽はとっさに扇を取り出し、戦闘体制に構えた。随分と無防備になってしまっていた…元の蛇骨とは別段仲が良かったわけではないのに。
蛇骨は深い眠りについていたかのように表情が怪訝に満ちていたが、神楽の姿を捉えると、すぐに目をはっきりと嫌悪の形に変えた。
奈落から少し聞いていた、彼の”女嫌い”の性質だ。
「てめえ、女…!」
「下手な真似すんじゃないよ。今のてめえは丸腰なんだ、…あたしの言うことを聞きな」
「丸腰…?…おれの蛇骨刀、何処やりやがった!?」
「あたしが知るかよ。あんたは犬夜叉と戦って死んだんだ、…そん時にでも折れたんだろ」
その神楽の言葉に、きつくあがっていた蛇骨の眸が一気に丸みを帯びた。呆然、といった感じだ。
「死んだ…?………そうだ、おれは犬夜叉と戦って…それで…」
意識が消える刹那の光景が脳を過ぎる。
可愛い犬夜叉と二人きりで戦えることになって、嬲っている間に油断してしまっていたのか、犬夜叉の刀の波動に打ち負けて…
二度目の生を、自分なりに楽しめたから…と素直に死ぬ運命に従った。そして、意識が消える間際にとても見覚えのある姿を見た気がした。
それから、一番好きだったあの人の名前を口にしながら、光に包まれて…――――
「…………簪…」
頭に手をやっても、…気に入りだった蝶の簪はない。緑の黒髪は、さらりと肩を流れているだけだった。
「………じゃあ、何でおれはここにいるんだ?」
「それは…」
「またあの奈落って奴が気まぐれを起こしておれたちを生き返らせたのか?」
「違ぇよ。お前だけだ。お前の仲間は骨のまま。あんただけがあいつの我侭で呼び覚まされたのさ」
「骨の……」
まるで反芻するかのように、何回も神楽の言葉を繰りかえしつぶやく。
そして―――勢いよく立ち上がると、蛇骨はいきなり広い屋敷の中を走り回りだした。
「な…!?」
「大兄貴…大兄貴!大兄貴!!大兄貴――――ッ!」
まるで子供が母親においていかれたことに気づいたかのように、蛇骨はその名を声の限りに叫んでいた。
それを止めようとも思わなかったが、神楽はその蛇骨の行動に目を奪われた。
そういえば、あの赤子が言っていた…こいつは、普通の人間が抱えている以上の闇を抱えている。それ故に、心の中で悩み悶えていると…
誰か特定の人物に助けを求め叫び続けていた、と…。
蛇骨の記憶が戻ると同時に、奈落によって押し込められていた理不尽の念が爆発したのだ。
必死に心の中で発していた声は真となり、こうして悲痛な叫びとなって…
(こいつが助けを求めていたのがその”大兄貴”、って奴なわけか)
神楽も、一回だけその”大兄貴”とやらの姿を(神無の鏡越しにだが)見たことがあった。
蛮骨…七人隊首領。確か、彼が他の七人隊からそう呼ばれていた。
隊で最年少ながらそのことを全く感じさせず、癖のある弟分たちをまとめ、そしてその力は妖怪にも引けを取らなかった。
そして憎しみに身を包み、自分同様奈落側の人間でありながら奈落を信用していないその姿…それに親近感を覚え、神楽は彼に目をひいたのだった。
勿論、犬夜叉に敗れたと聞いても悲しみを覚えたわけではなかったのだが――――
蛇骨は未だ半狂乱のままかの名を呼んでいる。
それが耳を劈き、神楽は”奈落の人形”となった蛇骨に初めてあった日のようにない心臓が疼いた気がした。
蛇骨の叫びが感情を揺さぶり、なんとも言えない感じを覚える。…鳥肌がたつ。
と、いきなり蛇骨の体がびくりと海老反りになり、その場に膝をついた。まるで、姿の見えぬ誰かに峰打ちをくらったかのように。
扇をしめ、どうしたのかと声をかけようとした瞬間。
「神楽」
「!…奈落」
全くおどろおどろしい風に出てくる男だ、と再確認する。
いつものように狒々の皮を身につけた奈落が、いつの間にか神楽の背後に立っていた。
「…記憶が元に戻ったか」
「あぁ。あんたの人形可愛がりも仕舞いってことさ」
ぎろり、と闇に染まった切れ長の目を向けられて、神楽は声を萎めた。
「…で、どうすんのさ。このまま手をはなすのかい?それとも、もう一回術をかけんのか」
「…………」
神楽の言葉を毛頭聞きもせず、奈落が膝を突いた蛇骨の前に立つ。
何かまだ術(すべ)でもあるのか、彼の小さな頭に手を置こうとした瞬間…その腕は、ぱしりと勢いよく蛇骨自身によって跳ね返された。
見上げられたその眸は、今までの死んだものではなく―――はっきりとした、生前のそれと同じで。
「知ってる…この手だ。……思い出した…」
「………」
「おれの意識が消えた後、しばらくして…てめえが現れたんだったな」
蘇れ、蛇骨…
あんたは…確か奈落……ここは何処だ…大兄貴は…!
お前はわしの”人形”となるのだ。人間などつまらぬものではなく、わしの戯れ道具となれ
んなこと聞いてんじゃねえ!大兄貴は何処だ!
煩い…蛮骨は犬夜叉に打ち負けて死したわ。…あの者は二度と蘇りはせん
!んだと…?……!
たとえ貴様の拠り所があの者だとしても、それは今日限りだ…お前の主はわしとなる
………ッ
大きな手の平で視界を覆われ、そこで意識は途絶えた。
「そっからの記憶がねえ。…それからおれは文字通りあんたの人形になってたってわけかい」
「再びそうなりたいか?…最も、今のお前にはその道しか残っておらん。骨と戻りたくなければ大人しく…」
「あんた、おれが何で記憶を取り戻したのかわかんねえのか?」
蛇骨は決然と奈落を見つめていた。
先ほどまで叫び狂い、我を忘れていた彼とは程遠いその表情…奈落も、”何か”を感じざるを得なかった。
「何…」
「おれの指に蝶が触れた瞬間、大兄貴の声が聞こえた…おれの名前を強く呼ぶ声だ。今までもぼんやりと聞こえてたけど、こんなにはっきり聞こえたのは初めてだ」
「…貴様を呼ぶ声か。…くだらぬ」
「……大兄貴は、おれに前言った」
”蛇骨…お前は俺のもんだ。例え死であっても、俺とお前の仲を引き裂く奴は許さねえ”
”もし…おれと大兄貴の行く果てが違ったら?”
”んなもん決まってる…誰の手からであっても、お前を俺の元に戻すだけだ”
「ふぅん…言うじゃないか、あの蛮骨って野郎」
神楽が興味深げに目を細める。
奈落と蛇骨は互いに目を逸らすことなく、じっと動向をうかがうように睨みあっていた。
「……無力な人間の言霊が、この奈落の力に勝るとでも…?」
「さぁな。あんたがどれだけすげえかしんねえけど、おれにとっては大兄貴が全てだから」
そして、はっきりと蛇骨が言う。
「大兄貴は、絶対迎えにくる。おれを一人になんてしない」
「…神楽」
「……何さ」
「こいつを奥に隔離しておけ…そして永久にそこから出すな。何も与えるな。…時が満ちたらわしが再度術をかける」
小さな声で奈落がそう告げる。
…神楽には、それがまるで蛇骨の言葉に奈落が恐怖しているように聞こえた。
蛇骨は抵抗を一切しなかった。それ以降奈落と少しも視線をあわせようとはせず、神楽の誘導にただ従った。
奥…奈落が以前妖怪を使い体のつなぎとしていた、四方を闇に覆われた部屋。
そこまで行く廊下をただ神楽と蛇骨は歩いた。黙りこくっている蛇骨に、神楽は少しの哀れさと訝しさを感じながら。
「あんた…蛇骨。今のうちに蛮骨って野郎とのキレイな思い出をかみ締めておきな。ここでは何も考えず、何の苦しみを覚えずただ暮らすことが
一番幸せなんだ。…あたしみたいになるよりは」
「…女、てめえこそ幸せだな。こんな小せえ所で生きるのが幸せか」
「何…?」
「大兄貴がおれに外で生きる資格をくれた…そん時から、おれは大兄貴の傍で生きると決めた。そして、大兄貴の傍で死んだ。
…大兄貴の許可なしに、おれは存在しねえ」
(何なんだ…こいつ)
神楽には理解できない言葉だった。
認めたくはないが、かけらをほぼ集めきり弱い人の心を捨てた奈落より上手の者が今現在此処にいるとは思えない。
それが死の世界の者であっても、だ。
「てめえ………」
人間ごときの戯言、本気で信じてんのかよ。
蛇骨の眸を見れば、そんな問いかけは聞くまでもなかった。
確かに、そこは全くの闇だった。
常人であれば、半日でも此処に入れられていたら気が狂うだろう…空気を入れる小さな窓だけが、微かな光を差し込んでいるこんな所では。
何処が入り口か北かそんな方向さえわからぬ中で、蛇骨は唯一の光に目をやった。
(…大兄貴)
仏や神、それらは自分を救ってくれたことなど一度もない。うそつきだ。…だから、信じたことなど一度もない。
でも、蛮骨の言葉にはいつでも嘘はなかった。だから信じていた。
今でもその心に偽りはない。
(……大兄貴)
今でも、しきりに自分を呼ぶ声は収まらない。
脳に直接響くかのような懐かしい声に、蛇骨は聞き入るようにその場に座りこんだ。
(……何だか眠い…)
蛮骨の声は、こんなに聞き心地が良かったのだったろうか…低くて、でもよく通る声。久々に聞いた気もする。
…そして、ゆっくりと目を閉じた。
…蛇骨………、…蛇骨。
奈落の気配を感じなくなり、神楽がひっそりと”奥”の戸を開けたのはそれから一つ朝を迎えてからのことだった。
しかし、そこには蟻一つの姿さえもなく。
ただ一本のか細い光が、小さな窓から差し込んでいただけで。