菊池家への城攻めで深手を負ってより、蛇骨は戦場を離れていた。一つ一つはそれほど重傷ではなかったが、何せ怪我の数が多すぎたうえ、血を流しすぎた。元々蛇骨はすぐに頭に血が上りやすく、斬り込み隊長と自称しているように特攻するのが好きな性質。勿論それは、負う怪我の数も他の比ではないことを表す。故に、常に怪我の絶えない男だった。
治りかけの時に無茶するともっと厄介な事になるぜ――それは兄貴分の言葉。それ以上血が出てぶっ倒れても俺は面倒を見ねえぞ――これはもう一人の兄貴分の言葉。その二つを同時に聞けば、いくら蛇骨とて従わないわけにはいかない。大好きな兄貴分達にこれ以上呆れられるのが嫌で、不服という思いをぐっと押し込んで、ここの所の参戦を自重していたというわけだった。
しかしいくら怪我が多かったからとはいえ、これ以上休んではいられない。ずっとじっとしているのは性に合わないし、何より暇なのだ。蛇骨はここ最近朝から夕まで、勤勉にも修行に励んでいた。修行だけなら、兄貴分たちも何も言わなかった。だから存分にすることが出来る。戦闘の勘を思い出すため、蛇骨はただ只管修行に打ち込んだ。
(――否)
勘など、戦っているうちに自然と取り戻すであろうことはわかっていた。それでも十間ほど離れた丸太に向かって得物を振り続けているのは、今手にしている得物を完全に自分のものとするため――。手にするは、勿論あの仕込み刀。相棒にすると誓った、あの厄介な刀だ。しかし流石扱い手が今までいなかったというだけあって、いつまでたっても「扱い慣れた」とは言えない始末だった。丸太に傷をつけることが出来ても、切り刻む事が出来ない。あの夜はそれなりに手ごたえを感じたのにな。どうにもしっくり来ない手ごたえに苛立ちすら感じていた時、背後から低い声が聞こえてきた。

「下手糞だな」
明確に、嘲りを含んだ声だった。振り返ると、そこには予想通りの男が立っていた。自分と同じように全身に怪我を負った、ざんばら髪の鬼面の男。数日前まで全身に包帯を巻いていたはずだが、今は右腕と額にだけとなっている。蛇骨よりも深手だったはずだが、治りがやけに早い。自分で薬でも調合したんだろうなと思ったが、どうでもいいことだった。男は廊下の梁に凭れかかり、仕込み刀に苦戦する蛇骨をずっと見ていたようだった。
コイツ、全然気配を感じさせなかった。それとも、修行に夢中すぎて自分が注意散漫になっていたのか。どちらにしてもきまりが悪かった。
「てめえ、覗きかよ」
「覗く気がなくとも、ドスドスと余程“斬っている”とは言えねえような音ばっかり聞かされちゃあ、見ちまうわな」
「誰がドスドス音を立ててたってんだよ!」
「さあ、誰だかな」と口角を持ち上げられると、蛇骨は静まっていたむかっ腹が再度起こってくるのを感じた。やはりこいつは気に食わない。初対面からそんなことわかっていた。蛮骨からは「もう仲間になったんだから戦うんじゃねえぞ」ときつく言われているが、それを破ってでもコイツを斬り捨ててやりたい衝動に駆られていた。相手はあの鉤爪を持っていない。今なら切り結ぶ暇もなくばらばらにしてやれるぜ。そんな蛇骨の剣呑な瞳に気がついたのか、「戦いはするなと言われていることを覚えておけよ」――改めて蛮骨の言葉を述べ、男は釘を刺すように言った。
「俺だっててめえを切り裂いてやりてえ気持ちを抑えてるんだからな」
「……け、やれるもんならやってみろってんだ」
集中していた糸が切れ、蛇骨は仕込み刀を鞘に収める。この男が傍にいるというだけで気が削げる。今日の所は修行を止め、今近くで開かれているという市にでも行ってみようか。買い物をするのもいいし、そこでいい男を捜して誘い込み一夜でも共にすれば、荒れている腹の内もきっと収まるに違いない。それとも生意気そうな男を捕まえて切り刻んでやろうか――ぞくぞくと気分を昂ぶらせる蛇骨を、男は「おい」と呼び止めた。
「明日には次の戦場へ行くんだからな、荷物を片付けて、いつでも発てるようにしておけよ」
「な、てめえ何の権限があっておれに指図すんだよ!」
「煉骨の兄貴に言われている。てめえを見張っていろと」
いつの間に煉骨を“兄貴”と呼ぶようになったのか。いやそれよりも、こんな得体の知れない男に自分の目付けをさせるなんて、煉骨の兄貴は何を考えてるんだ!勿論その蛇骨の怒りは煉骨にではなく、目の前の男へと向けられた。
「フン、煉骨の兄貴の言う事だから従うさ。勘違いすんじゃねえぞ、おれはてめえの言う事を聞いたわけじゃねえからな。お前みてえな凶悪な面して何考えてんだかわかんねえ奴――」

「睡骨」

あまりに突然の言葉だったので、何を言ったのか聞き取れなかった。蛇骨が「は?」と気の抜けた声を出すと、男は「俺の名だ」と続けた。
「蛮骨の兄貴が、昨日俺に言った」
「いつまでも鬼面とか、アイツとかだとわかりにくいだろ?仲間なんだからさ」と、男を前にして蛮骨は満面の笑みで言った。そして“煉骨に書かせたんだ”という紙を見せてきた――そこには流麗な字で、睡りの骨……“睡骨”と書かれていた。命名したのは勿論蛮骨だ。二重人格、一つが表に出ている時は片方は眠ってるってわけだろ?面白いなあ。そう、酷く無邪気にあの首領は言ってのけた。彼が始めて年齢相応に見えた瞬間でもあった。勿論そんなことを口に出しはしなかったが――あまりに邪気がなかったため、反論する気にもなれなかった。否、反論などする余地もなかった。
「俺は今まで名前なんざなかった。人から呼ばれることもなかったし、誰とつるむ気もなかったからな。だがそれがこういう境遇になっちまった以上、名前だって必要になってくるだろ」
「そうかよ。てめえの名前なんておれにとっちゃどーでもいいけど、蛮骨の兄貴が決めたことだからな。だがな、一つだけ覚えとけよ」
背に刀を背負い、草履を後ろ足で脱ぎ捨てて蛇骨は縁側に上ってきた。柱に凭れかかっていた男――睡骨もにわかに体を起こす。兄貴分の言葉を引きだして牽制したとはいえ、この男がいつ気まぐれを起こすかわからない。あの曲刀を向けられてはたまらない。あの不味い扱いからして一刀で殺されるとは思わないが、鉄の爪を持っておらずやっと傷が治りかけていた今、再び怪我をさせられて寝床に臥すことだけは避けたい。睡骨の横で立ち止まり、蛇骨は頭一つ分背の高い睡骨を見上げた。それは見上げるというより、睨みつけるといった方が正しい目つきではあったが――。仄かに青く縁取られた眦を吊り上げ、紅を差した形良い唇は真一文字。かちあった視線に、一瞬、時が止まったような気がした。しかしそれを感じたのは睡骨だけであったようだ。
「おれのが先に蛮骨の兄貴と煉骨の兄貴と一緒にいたんだからな。てめえが仲間に入ったってことは、つまりおれのが兄貴分なんだから、おれを敬えってんだ」
それだけ言うと、蛇骨は睡骨を突き飛ばすように道を譲らせて奥へと歩いていった。体を押された小さな衝撃に、浅い金縛りが解ける。薄暗がりに消える細い背中を目で追いながら、「てめえの何処に敬う部分があるんだ」と悪態をついた。最もそんな声が届けばまた彼が噛み付いてくるのだろうから、聞こえないように声を最小限に絞ってのものだったが。それにしても。
先程の視線は、何だった? どうして自分は動けなかった?
もしあの時刃を向けられていたら、彼の勢いからして浅い傷ではすまないであろうほどだったのに――それは蛇に睨まれた何とやらの心地であったのか、それとも……。
睡骨自身にも、それをわかりかねていた。ただ、ズキン、と頭が痛んだ。