「よう睡骨、おはようさん」
まだ眠気がとれないのか、何処か据わった目つきの蛮骨はそろりと睡骨を一瞥すると、その場にどかりと座った。ちょうど、睡骨に背を向けた形で。

こんにち、蛮骨が起きた時間は普段より少し早かった。というのも、いつもは朝食が机に並んだ辺りで起きてくるのに、今日はまだ煉骨が作っている最中で起きてきたからだ。他の仲間たちは――蛇骨はいつも通り寝起きが悪いのでまだ床の中だろうし、霧骨は朝から調合する毒草をとりにいったし、凶骨は自分で何やら食事に行ったし。銀骨も昨日遅くまで改造されていたとかでまだ寝ているし、煉骨は勿論朝餉の支度でいない。今、この部屋には蛮骨と睡骨しかいないことになる。だからといって、特別なんだというわけではないが。
襖にも垂れ腕を組み、ただ朝食を待っていた睡骨は自然と目の前の蛮骨の体――正しくいえば、その青藍色の長髪に目がいった。さらりとした蛇骨の髪とは違い、少し波打っている蛮骨の髪。蛇骨のは着飾るためだろうが、蛮骨はなぜ髪を伸ばしているのだろう。ふとそんな疑問が沸いて出た。いつもきつく三つ編みにされてゆらゆらと揺れている髪。絶対に洒落ではないだろう。気を配っている所は見たことがないし、それに――
「睡骨?」
いきなり声をかけられた。
蛮骨は目の前でひらひらと手をふっている……意識が何処かに飛んでいたらしい。くだらない考えを消し、何だ、と聞いた。
「お前、髪結える?」
「……は?」
「俺の髪だよ。暇だし結っとこうと思ってよ」
そういえば、この人は自分で髪が結えないのだった。いつだったか、戦場で三つ編みをしていた紐が敵によって切られほどけたことがあった。そして生憎それを結べる者たちの手があいていなかった時、蛮骨はその長い髪をそのままにして戦っていたのだ。”蛮骨の髪結い係”なのは大抵蛇骨――あいつは器用だから――で、時々煉骨。けれども蛮骨の傍に蛇骨がいない時なんて滅多にないから、自分にその役がまわってくることは今までなかったのだが……
「……多分、出来るが」
「じゃあ頼む」
少々下手でもきつく結んでおいてくれりゃあいいから、と紐を渡す。戦場では長い髪は邪魔でしかない。蛮骨ほどの手練れであれば理解しているであろうに。
(そういや前、「斬らないのか」と聞いたら「使い道があるんだ」と返されたことがあったな)
その理由までは聞かなかったが。
蛮骨の髪を人房手に取り、膝をつく。すると、肌蹴た着物から焼けた素肌が覗いた。自然に、背中の項より少し下、左肩の斜め下辺りに…真新しい引っかき傷があるのを視界で捉えた。浅いのから、深いのまで数個……そして、更によく見れば……首元に、独特の情事痕。
(……蛇骨か)
昨日は遊女は来ていなかった。となれば、紅の痕をつけられるのは彼ひとりしかいない。昨夜姿が見えないと思ったら、蛮骨の所にいて抱かれたのか。容易く、その様子は想像できた。特異なことではない、むしろ聞きなれたことのはず――。しかしその痕をいざ目に入れてしまうと、やはりどうにもやりきれない思いを感じてしまう。抑えられていた感情が旨に競り上がってくる。無意識に、目の前の引っかき傷に指を沿わせていた。
「? ……あぁ、そりゃ蛇骨につけられたやつだな」
睡骨の行為に動揺するでもなく、淡々と蛮骨が告げる。
「アイツ、ぎりぎりつけやがる。なるべく俺に女を抱かせねえようにだろうけど。傷を見て帰っちまう潔癖の女もたまにいるから」
「…………」
「何かしんねえけど昨日はやたら善がってやがったな。本当にあいつは」
「もういい」
見事に不機嫌な声音になってしまった。不味かったか、と少し思ったがもはやひけず、睡骨は黙って結い作業にとりかかった。蛮骨はそれを聞いてふいに黙ったが、しばらくして堪えきれなかったように、くく、と漏れ出したような笑い声を出した。
「……何がおかしい?」
「いや……お前無口の割にはいざって時に感情殺すの下手だよな」
「無口はともかく、普段感情を殺してるつもりはないが」
「そうか? 俺にはかなり押さえてるように見えるけど。殊に、蛇骨に関しては」
ぐ。
髪を持つ手が急に強張り、網目がきつく結ばれた。
「不憫だな。あいつ他人の色恋には敏感な癖に自分のは鈍感だから。蛇骨のこと好きなんだろ?」
「…………」
「腹の内割れよ。別にだからどうこうってわけじゃねえんだから」
「好きだとかそう簡単に割り切れるモンじゃねえ。それに、大兄貴には負けるしな」
「? どういう意味だ」
「大兄貴の、蛇骨に対する思いには負ける、と言ってるんだ」
我ながら、嫌味な言い方だと思った。しかし事実だ。傍から見ていてもそれは明らかだったし、何事にも執着しないように見えて蛇骨に関することには矢鱈うるさい。蛇骨の姿が見えなければ必ず探すし、男のことを匂わすようなことを蛇骨が言うととたんに不機嫌になる。しかし、蛇骨が傍にいればすぐに笑顔に変わる。
時々――蛇骨を得るためなら誰を殺してでも、という場面さえも見える。
最初から諦めているものだからこそかもしれないが、自分には真似のできないことばかりだった。
「何だ、そんなこと気にしてんのか?」
「大兄貴の言葉に嘘はないからな。前に、蛇骨は俺のもんだ、って公言したことがあっただろう」
「そりゃ、あいつは俺のだから」
しかも、その数も一回や二回ではないのだからどうしようもない。全く、何が言いたいのか……自分相手に惚気でもしたいのか――朝から疲れることを。少々胸内で悪態をつきながら、睡骨は髪を結った。結えていない髪はまだ長い。
「……俺の言葉に嘘はねえ、か」
「そうだろう? 少なくとも、大兄貴が俺たちでもわかる程度以外で冗談を述べている所なんざ見たことがない」

「じゃ、俺が今蛇骨よりお前のほうが好きだっつっても信じんのか?」

明らかに、言っていることは冗談、……もしくは嘘の内容だった。しかし、声音は真剣のそれに近い。思わず結いの手を止めて、動揺を表してしまった。
「……冗談だろう?」
「さあ」
「さあって」
段々、呆れは苛立ちに変わってきていた。この人は一体何がしたいのか。普段からそれが読めないだけに、ふつふつと苛立ちが募る。そして眼前の人物は、自分に構わず全く平然と面白おかしそうな声色だから、更に余計に。
「俺をからかいたいのか? つまらないことはやめてくれ」
「どこがつまんねえんだ? 面白いのに」
その言葉に、思わずかっとなった。完全に髪を結う手は止まり、両の手を膝の上に置き怒りを何とか抑えようとする。
「でも、お前は蛇骨が好きなんだっけな。欲しければ奪えよ。今、俺の首をしめれば蛇骨を手に入れられるんじゃねえか?」
「そんなこと……できるわけがねえ」
「何でだ? もし俺がお前の立場だったらやるぜ。好きなヤツ手に入れるためだったら何だってする。理由はそれで十分だ」
「…………」
「今、お前を奪うことだって出来るぜ」
突如として蛮骨は振り返り、引き気味の睡骨の着物袖から、するりと指を差し入れた。――滑らかに、違和感なく。何処か、覚えのある感触だった。最も、いつもこうしてくる“彼”より少々逞しい指先だったが。
「、やめろ」
「ヤだ」
こういうことをするのなら蛇骨に――と言葉が喉まででっかかって、ふっと消えた。
そうだ……この人はこういう人だったんだ。
欲しいものを得るためなら何だって。卑怯な業であろうが、誰に憎まれようが、誰を永久に失おうが――。そして自分はそんな彼に逆らえない。
それが蛮骨という男。
戦場で蛮骨に初めて会った時、体中に得体の知れない恐怖が走ったのを思い出した。

「睡骨?」

何も反論しなくなった睡骨を不思議に思ったのか、ゆるゆると肌の上を進んでいた蛮骨の指が止まった。結ばれるのをやめた青藍色の長髪は解け、蛮骨の肩の上をさらりと零れた。
「……あ……」
睡骨が我に返る。……と同時に、障子一枚隔てた廊下からぱたぱたと軽い足音が聞こえた。誰であるかは瞬時に判断出来る。思ったとおり、その足音の主はからりと戸をあけ蛮骨と睡骨のいた部屋に入ってきた。だらしなく着物は着崩され、戦場での吊り上げられた眦は今はおっとりと眠そうだ。……そして、首元には蛮骨と同じような情事痕も認識できた。
「……あー……何やってんの、大兄貴……睡骨」
「おぅ、蛇骨やっと起きたんか。いい所に来た。髪。編んでくれ」
「いいけど……」
やたら近い距離にいた蛮骨と睡骨に蛇骨は少し不思議そうな顔をしたが、眠気があったのかそれ以上の追求はしなかった。それから、蛮骨は蛇骨に髪を編んでもらって、ずっと喋っていて、……睡骨の方を一回も見もしなかった。一方の睡骨はといえば、嵐が過ぎ去ったあとのような感覚だった。
一体何だったんだ。やはり、ただの蛮骨の冗談だったのか。
そう思って、ふと気がついた。

大兄貴は、冗談を言ったことがないんだった。明らかに嘘だとわかるもの以外。

嘘であるとは言い切れない声音だった。
じゃあ、先程のは――……

目の前で蛇骨に髪を編んでもらっている蛮骨をちらりと見ると、彼は目を閉じ、何処か楽しそうな表情を浮かべていた。