サファイア、…サファイア



何処からか、自分を不安げに呼ぶ声が聞こえた。

また幻想か。…ならば、もうやめて。
―――――アイツのあんな言葉は、もう聞きたくはなかとよ…。












「…サファイア!」
「!」

耳元で大きく名前を呼ばれ、はっと目が醒めた。
自分はどんな目をしていたのだろう。いきなり視界に現れた彼の姿が、一瞬ぼやけて見えた。


「…サファイア」
「…………ル、ビー……?」


紛れもなく、ルビーだ。
先程まで自分にあきれ、眉をつりあげていた彼とは思えない表情。…心底心配している、といった様な…

「…あたし…」
「…気を失っていたんだ」

そう、とつぶやき辺りを見渡す。
…あの男はもう影も形もいない。一体何者だったのか、結局わからずじまいだった…

「…何かされたのか?」
「…え?」
「…………ほら、気を失っていたから…何か、にでも襲われたのかなと思って」

“ホカゲ”の名は出さなかった。
そして、我ながら消極的な聞き方だと思った。砂にまみれた服装、赤くなっている彼女の腕…たやすく、何がおこったのであろうかは想像できるはずなのに。
聞くのが怖かった。…そして、真実を聞いた時の自分の怒りがどれ程かが恐ろしくて聞きたくなかった。
何もなかった、と信じたい。


サファイアは一瞬迷った様に顔をうつむかせたが、すぐに顔を上げた。

「…ううん。何もなかったとよ」



嘘だ、と一瞬でわかった。



彼女は元々嘘がつけない性質。
いつも作らず飾らない純な笑みを浮かべる彼女が、嘘をつく時はひどく表情がぎこちなくなる。

「…へへ、あんたとケンカばしてちょっと疲れてここに迷い込んでしまっただけったい。あたしとしたことが不覚やったと」

一生懸命な嘘。
…これ以上追及するのもかわいそうだ、と目を瞑ることにした。



何より、真実を聞くのが怖かった自分のために。
追及はできなかった。













「…ちょっと、あたし何も怪我してなかとよ」
「いいからおぶられてなさい」

遠慮する彼女の体を抱き上げ、帰路を歩き始めた。…立ち上がった彼女の足が酷く震えていたのをみたからだ。
最初こそ文句を言っていたものの、彼女も精神的疲労が強いのかすぐに静かになった。

細い体。小さな体。
そんな彼女の体があの男に触れられたのかと思うと、腹の底から熱いものがこみ上げてくる思いだった。

怒りで心がいっぱいで、彼女に気の聞いた言葉もかけてあげられなかった。
暫く互いに無言で歩き続けた。
もうすぐ夜明け。今日は本当に散々な夜だったな、と空を見上げると、暗い闇はだんだんと明るみを帯び始めていた。




…駄目だねぇ。大切なモンは、しっかりと繋ぎとめておかないと。




そんなカガリの言葉がすっと過ぎった。


「サファイア」
「…?」
「………ごめんね」

は、と息を呑む音が聞こえた。
…そして、彼女の腕が強く自分の肩にかかるのを感じた。


「…………怖かったと…」


普段の彼女からは考えられないほどの小さな、搾り出すような弱い声。
背で小さく小刻みに震える体。殺されている涙の声。…彼女を抱き上げている腕に、強く力をこめた。





白い月はうっすらを姿を消し始め。
彼らの思いを置き去りにしたまま、新しい一日が無常に始まろうとしていた。