敷居から一歩を踏み出し、草原を踏みしめる。
久しい、こうして外の空気を感じるのは――あれからどれだけの時間が過ぎたのだろう。
いや、描いた計画が失敗に終わり捕らえられはしたが、実質的な被害は少なかったため牢に入れられた時間は結果短かった。だから外の景色や匂いはあの日からそう大差ないはずである。
しかし今こうして外に出ても、嬉しさや開放感などあるはずもない。あるは、空虚ばかりだ。何もかもを失い、無になった身。自身を保つ希望さえ失った者は、どう世界を生きていけばいいのだろう。
現実世界は、かくも醜く存在しているというのに。

「よお」
力なく見上げた目線の先には、以前自分が教えを受けた男の姿。
改めて顔を合わせる若干の照れこそあれ、蟠りなど欠片も感じさせない柔らかな笑顔。
「お勤めご苦労さん、なんてな」
この様子を見た者がいたら、まさかこの二人が以前袂を分かち合った師弟であるなどとは露程も思わなかっただろう。
しかし事実は確かにそうで、そしてこの男は人懐こかった。
牢にいた頃も、この男は何度か自分に会いに来た。けして何も語ろうとしない自分に、懲りずに他愛もない話をし続けていた。まるで二人で反転世界の夢を語り合った、あの時と何ら変わりないように。

「今日が出所って聞いてな。ここで待っていた」
「……」
「しかしいざ外に出た所で、お前もすることがないだろう。よし、ゼロ!もう一度俺の助手となれ。俺が鍛え直してやる!」
「断る」
ゼロのけんもほろろな返事に、流石のムゲンも苦笑せざるをえない。
「おいおい……俺ぁずっと牢の中のお前に付き合ってきたんだぜ?そして出所して感動の再会……普通この流れならYesだろーが。健気な師匠の気持ちを汲み取れよ」
「私は計画を諦めたわけではない……一度は失敗したが次こそは」
明るく和そうとするムゲンに対し、ゼロの顔は未だ陰を落とす。横顔から見えた弟子の鈍く光る瞳は、未だ野望を諦めてはいなかった。失ってしまったものなら、取り返すしかない。今のゼロは夢に縋ることしか出来なかった。
草原を踏み込む足は力なく、されど進むことを止めない。

「……いい加減にしろよゼロ。ムショ入って少しは改めたかと思えば……何度やった所で結果は同じだ。反転世界はお前のものにならないし、現実はなくならん。何でそれがわからん」
「お前こそ何故わからない!?反転世界の美しさを!ギラティナの力を少しの間ながら手にいれ反転世界を統べた時、私はこの上ない安らぎを得た……お前が私と別れた後五年もの間、反転世界に居続けたのは私と同じ安らぎを感じたからではないのか!」
「まぁ科学者として反転世界は興味深かったからな……だが支配しようなどとは思わなかった。反転世界で過ごせば過ごすほど、反転世界の重要さとギラティナの偉大さを感じていったからだ。それは人間には出来ん」
人間には出来ない。その絶対的な否定の言葉すら、もはやゼロの耳には届いてはいなかったようだ。
……弟子の頑固さは未だ健在、か。
思えば、ギラティナの身に危険が及ぶと計画の中止を伝えた時にも、ゼロは激しく食い下がった。科学者として、謎を追究する者としてその反応は当たり前のことだと理解しながらも自分はそれを遮断した。
その時の対応は間違っていなかったと確信出来るが、彼への態度は間違っていたかもしれない。ゼロという男の執念深さを理解しきれていなかった。反転世界で再び会い見えた時、まさか彼が未だ抱く夢を諦めていなかったとは思わなかった。自分の前に立つゼロの決意の姿に、心底驚かされた。
少なからず、このたびの事件は自分の責任だと感じていた。だからこそ、ムゲンはこの弟子を放ってはおけなかった。

「ゼロよ、よく聞け。現実世界と反転世界が対なる存在であることはお前でもわかっているだろう。互いに影響を及ぼしあっている。現実世界の裏側にあるのが反転世界だし、反転世界で何かを壊せば現実世界にもそれが及ぶ。お前がしたことだ、よくわかっているとは思うが。その逆もありえるとは思わんか?」
「何?」
「シンメトリー、まさしく、鏡合わせなものだ。鏡に写すものがなくなれば、鏡の中には何も写らない……存在しえない。つまり現実世界を亡くせば反転世界に待ってるのは朽ちる未来のみということだ。お前の望みはそれか?」
その言葉は、少しはゼロの耳に届いたようだ。しかし判断を覆すほどの威力は持たない。ゼロは立ち止まり少し逡巡したようだったが、すぐにそんなはずはない、と小さな声で答えた。まるで自分に言い聞かせるように。
「そうなるだろう。いや、元々ギラティナは冥界の主と言われている……荒廃し光を失った世界では……あるいは、お前を喜んで受け入れるかもしれんが。そのような世界の王になってはお前も安らぎを得ることは出来ないだろうな」

ゼロは何も答えられなかった。
無言は、暗の肯定であるとは誰が言ったことだろう。しかし今何か言葉を発すれば、自身すら否定してしまうことになると感じていた。私が望んでいた世界はそのようなものではない……私はギラティナを開放し、そしてこの足元に在るあの美しい世界をこの手にしたかった……それは独りよがりの安らぎだ。最大の我侭である。それを誰に責められようとも、構わないと思った。自分は王になるのだから。
しかし反転世界はそれを許さないという。醜い現実世界と寄り添うことで、侵されることを拒絶する……。

今度こそ、ゼロは足を止めてしまった。何処へ進めば良いのか、それすらも見失ってしまったかのように。
「本当の安らぎってのはな、ゼロ」
ムゲンが小さく声をかけると、横についていたタテトプスは小さく輝く砲撃ラスターカノンを撃った。
二人の足元に咲き誇っていた花が、衝撃によって打ち上げられ風に舞う。それはまるで祝福のシャワーのように、ゼロに降り注ぐ。穏やかに、優しく。
無意識に掲げた掌に降り立った桃色の花弁に、ゼロは確かに見覚えがあった。グラシデア―――。
「自分を無条件で受け入れてくれるものだ。見てみろ、ゼロ。こんなに現実世界は美しいじゃないか。お前も見られれば良かったのにな、グラシデアの花弁が美しく舞うシェイミの花運びを……あれを見たら、お前もそんな野望など忘れてしまっていただろう」
ムゲンは花弁を見上げ誇らしげに語る。
ゼロはそんな師匠が嫌いだった。同じ時代、同じ現実世界に生きているのに自分には見えないものを見えているかのように語るムゲンが。そして何より、彼と同じものを見ようとそばに付き添っていたのに、物分りのいい「ふり」をして計画を諦めてしまった彼を。
その時自分は師匠に絶望した。どうしてわかってくれないのだろうと。
そして同時に、激しい悲しみを覚えた。師匠と、もう同じ目線に立つことは出来ないのだと思い知らされたから。

「それでもまだ信じられないのならば」
しかし今。
ムゲンはまた自分の前にいる。
「なおさら俺と共に来い。俺はお前よりちったぁ少しは長く生きている。この世界の素晴らしさを語ってやることくらいは出来るだろうよ。
この世はとても脆くて、でも素晴らしい。その魅力を語るには、一朝一夕じゃ無理だ」
こうして手を差し出されるのは、これで二回目だった。一度目は、差し出された手を進んで受け取ることは出来なかった。しかし今ならば。今手を取れば、まだ可能性を手にすることが出来る……。
今度こそ安らぎを手に入れるために。




「それにあの女の子を、インフィを作り直してやらないとな。どうあれ、お前があの人工知能を支えとしていたことは間違いないようだしな」
それは皮肉か、それとも当てつけだろうか。自分の前を歩く男は、人工知能の名の由来を知ってか知らずかからからと笑う。
「所でお前、ああいうのが好みなのか?」
「……先生には関係ないでしょう……」
「そうだな。いやだがな、俺の好みとしては……もう少し凹凸をはっきりさせた方が……」
「駄目です。あのバランスがちょうどいいんです」

二人は花畑を進んでいく。
いや、ゼロはずんずんと早足で進んでいくムゲンについていくのだけで精一杯だった。そういえば昔からそうだった、ムゲンはせっかちに歩く性質だ。目的があろうがなかろうがそれは関係ない。だからその足が一体何処に向いているのだろうということは全く持ってわからない。しかしそれを問おうとはゼロは思ったことがなかった。
ゼロには、ムゲンに何処までもついていこうという思いしかなかったからだ。
昔も、そして今も。


まだ野望諦めてなかったのかよという突っ込みは胸のうちに秘めておいてください。