挑戦者用にと宛がわれた宿泊施設に戻ると、珍しくラティアスが自分の帰りを待っていた。
否、『居る』だけならばそう珍しいことではない。そこにいたラティアスは本来のポケモンの姿ではなく、人間の姿。しかも部屋の床は覆いつくされん勢いで様々な服が並べられている。
それを見た時、エメラルドは「お帰りなさい」と笑顔を見せる彼女に、「何してるんだ?」としか言えなかった。

“看護士さんよ。ラティオスから、あなたが転んでケガをしたってテレパシーで聞いたから”
「かすり傷だから大丈夫だよ。じゃなくて、何をしてるんだって……」
そう言っても、ラティアスはエメラルドに「ケガをした所を見せて」と食い下がった。
その訴えに負け彼女の手当てを受けながら、改めて部屋内に並べられている服を見れば、それらは全て女性ものだった。更に目をこらせば、それらは光を屈折しておらず洋服の下にうっすらと床が見えていて……ということは、これらは全て。
“わたしが用意したの。本物じゃないわよ、サイコキネシスで浮かび上がらせただけ。雑誌を見て作り出してみたの”
瞬時、大量の服は消えてしまった。また元通りのクリーム色の床がエメラルドとラティアスの足元に戻ってくる。
“ホラ、私って自由に衣装を変えられるから服なんて必要ないのだけれどね。メイドさんとか、記者とかその時その時にあった服になれるけど……でも私服だけまだ決まらなくて参考にしていたの。ねぇ、ラルドはどんな服が好き?”
「……何でもいーよ。目立たなければ何でもいいんじゃない」
手当ても終わり、エメラルドはベッドに横になる。はずむ声のラティアスの方に目もやらず、背中越しにひらひらとマジック・ハンドを伸ばして振ってみせた。
噛み殺した欠伸と共に、うつらうつらと頭が重くなってきた。このまま眠ってしまいそうだ。
そんなエメラルドの我関せずの態度に、流石のラティアスも頬を膨らませた。
“張り合いない返事ね。……わたしはラルドに可愛いって言ってもらいたいのに”
「俺は可愛いとか好きとかそういう感情をポケモンに持つのはごめんだね! バトルに支障が出る」
明らかにラティアスは沈んだ声だった。
しかし「可愛い」の言葉を聞き、エメラルドも黙ってはいられなかった。
自分の手持ちを可愛いと溺愛し、無様なバトルをするトレーナーを今までどれだけ見てきたことか!ああはなるまいと自身に誓ったのだ。自分はポケモンが好きなのではない、ポケモンバトルが好きなのだから。
しかしラティアスはエメラルド以上に声を荒げた。
“私はラルドの手持ちではないし、戦わないわ! ラルドのことが大好きだから手伝いもするし、こうしてそばにもいたいのに……伝説のポケモンだなんて呼ばれるせいでそのままの姿じゃそばにいられない。だからこうして人間の姿をとってるのよ”
そう言ってから、ラティアスは「あ、」と口を覆う。
“もしかしてラルド、私のこの姿好きじゃない?! どんな容姿の女の子が好きなの? わたしその姿になるから……”
「だーっ!! そういうことじゃなくてっ!」
先程からの彼女の言葉一つ一つにめまいを感じ、流石のエメラルドもやっとラティアスの方を振り返る。……思っていた以上にラティアスは真剣な表情で、けして冗談を言っているのではないということを理解せざるをえなかった。いい加減にしてくれ、と言いかけた言葉がぐっと喉に戻っていく。
ともかく暴走しそうになる彼女を抑え、エメラルドは頭を抱える。
……美醜を特に気にしたことのない自分でも、人の姿をしたラティアスの容姿は整っている方だとわかっている。顔貌は大人っぽく色艶さえ感じさせると思う。なのにどうして、こうも思考は幼いのだろう。いや、普段の「自分の右腕として調査をしてくれる」彼女は兄ラティオスとも遜色なくしっかりとしていて、頼もしい。
プライベートの時だけ、こういう物言いをするのだ。好きだとか可愛いとか……それも彼女の言う「エメラルドが大好きだから」なのだろうか。
何せポケモンを「頑張れ」と応援することや、思う気持ちがあれば勝てるという論理を失笑してきた自分だ。数字やデータになっていない、抽象的なものはよくわからない。

一つ息をつき、ラティアスに向き合った。(目線でという意味ではなく、体勢の問題だ。)
「ラティアス。落ち着いて聞けよ」
“ええ”
「……俺さ。あんま他人に興味ないから。他人の名前もあんまり覚えないし」
“まぁっ!”
ラティアスが驚いたような、怒りのような表情をする。ここで吃りでもしたらそれこそまた何を言われるかわからない。間髪いれず、次の言葉を紡いだ。
「でもそんな中でもラティアスは特別だよ。いつも頼りにしてるし、それこそいつもそばにいてもらって助かってる」
それは本音だ。その場しのぎの言葉ではないし、偽りはない。……誇張は、少しあったかもしれないけれど。こんなことを自分が言ってるだなんて背中がむず痒くて仕方がない。
しかし自分の言葉が進むごとに、ラティアスの顔は日が差しこむかのように明るく輝いた。唯一本来の姿から変わらないアーモンド型の金眼が見開かれ、エメラルドをとらえる。
“本当?! ラルド、私のこと好き?”
ずいと前のめりにラティアスはエメラルドに迫る。生来の人間ではありえない纏まりの良い顔立ちが、エメラルドの視界全体に広がった。華奢な少女――しかもただの虚像である――の勢いに不覚にも気圧され、体がよろめいた。
「……す、好きだよ」
……と言い切ってもいいものなのだろうか。しかしラティアスはエメラルドの言葉を聞くや否や、その金の瞳をじわりとにじませた。
“嬉しい……!私も、ラルドのこと大好きよ。本当に好きよ!”
「うわっ!」
感極まったのだろうラティアスにより、その腕に思い切り抱かれる。
彼女がいくら普通の少女より骨細でその姿が虚像とはいえ、熱烈な思いも加わったその勢いはエメラルドを柔らかな寝床に沈めることとなる。痛みも重みもなけれど、ぼわんとスプリングが軋むほどの勢いを加えられれば、文句を言える権利くらい生まれるだろう。しかし。
“好きよ。ラルド、ラルド――”
そう言って、エメラルドをほっそりとした腕で抱きしめたものだから。
……何だかむずむずする。
それは嬉しさ?しかし、バトルに勝利したようなすがすがしい嬉しさではない。ほのかに、胸にじわりと浮き上がるような気持ちだ。

“ラルド?”
――天井を背に自分を見下ろすラティアスの瞳を見ると、それが更にふつふつと湧き上がってくる。
「な、何でもないよ。……ああ、そういえばさ。何でラティアスってオレのこと『ラルド』って呼ぶようになったんだっけ?」
“んー……きっかけは忘れたわ。でもラルドは私にとって特別な人よ。特別な人は特別な名前で呼びたいの。誰かと一緒の呼び方なんて嫌だもの。だから……ラルドが、私を特別って言ってくれて本当に嬉しいの”
そう言って、ラティアスは美しく笑う。
「そ、か」
ラティオスも自分を同じように呼んでいることはこの際置いておこう。彼女と兄は一心同体も同然だ。
それよりも、自分の「好き」やら「特別」といった短い言葉に、これほどまでに破顔するラティアス――何がそんなに嬉しいのだろうと変な気分がした。けれども、普段々ことを叫ぶトレーナーに感じるような侮蔑は全く覚えなかった。
何故だか、それはわからない。けれども目の前で喜色満面に微笑むラティアスを見、悪い気分はしなかった。


9.特別な名前
(いつも名前を呼ぶよね、どうして?/特別だからさ)