祟りを受けた瞬間、俺は全てを失い地へと堕ちた。
思えば、俺はそうとう嫌な人間だった。詳しく書きとどめることは控えるが、今の俺の元だ、ロクなものではなく今とそう変わりはないことは誰だって想像に難くないだろう。我ながら、反吐が出る。
かたや、サーナイトは何故そんな俺のそばにいるのかわからないほどの良いパートナーだった。
彼女は聖女とも言えるほどの包容ポケモンであり、抱擁ポケモンだった。世に存在する者ならば必ず持ち合わせているはずの性悪も、彼女には縁のないものであると言い切れるほどだった。それほどのポケモンが、どうして俺のような愚か者をかばって祟りを身に受けなければならなかったのか。
自分に起こった物事を受け入れざるを得なかった時、俺は何を恨めばいいのかわからなかった。
キュウコンを恨めば、それは結局馬鹿な俺自身を恨むことになる。そしてそれは、そんな俺をかばった彼女を恨むことになる。……それだけは出来なかった。
気持ちは行き場を失い、ただ俺の胸に靄となって留まり続けた。苦しかった。ただ、人が嫌がることをしていれば気がすんだ。それで良かった。悪戯をすることで相手が俺に抱える憎しみを吸って、『ゲンガー』は成長していく。人間としての心は、容積を失い小さくなっていく。そうして小さな痛みだけを抱えて、影ポケモンとして一生を終えるつもりだった。
それなのに、現実はそう終わることを許さなかった。
パートナーは俺の元に、再び帰ってきた。あの日から何ら変わらず聖女のままで。
全てを失った俺は、彼女の前に無様な姿を晒すことしか出来なかった。名乗ることすら、許されず。
「……そうしたら、そこで罠を踏んでしまって。ちゃもさんの頭上から、イガグリがたくさん落ちてきたんですよ。大事には至らなかったのですが、少しお怪我をなさってしまって」
彼女は喋る、他愛もないことを。
俺はその隣に座っていて、ただ耳を傾ける。
街から少し外れた何の変哲もない草原の真ん中に、大きな丸太が一つ。ここは以前から俺がよく来る場所だった。あまりにも何もなさすぎて、日々救助や探検に燃える暑苦しい街の奴らはこんな所に滅多に来ない。そのため、ここは常に静かで、俺が悪戯を考えるには最適の場所だった。
勿論仲間のアーボやチャーレムも知っている場所だが、最近はあまり現れない。理由はわかっている、ここによくサーナイトが現れるようになったからだ。彼女はいつの間にか俺の後をつけ、場所を覚えたらしい。俺に会いに来るサーナイトに気をつかい、奴らは来なくなったのだ。妙な気をまわしやがって。
「元々マンキーさんの件からちゃもさんはイガグリに苦手意識を持ったみたいで、とても怒っておられましたよ。“もうイガグリなんか見たくない!”なんて叫んで」
「ケケッいいこと聞いたぜ。今度アイツの家にイガグリ放りこんでやろっと」
「まぁ、ゲンガーさん。そんなことしてはいけませんよ」
面白そうな悪戯計画を頭で展開させる俺を、彼女は優しく窘める。
それに対し俺は「わかった」とも「嫌だ」とも言わない。サーナイトも、確認はしない。お互いにわかっているのだ、相手がどう思ったか、それに対しどう動くべきなのか。
……昔も彼女とこんなやりとりをした気がする。しかしそれを考えると、結局キュウコンに祟りを受けたことを思い出してしまって……苦々しくなる。故に、いつからかそうして記憶をたどることも、やめてしまった。
「そんなトラブルはありましたが、きちんと依頼主のバルビートさんをイルミーゼさんの所へ送り届けることが出来ました。微力ですが、わたしも役に立つことが出来て良かったです」
「ケケッそうかよ。お前救助隊向いてるみたいだな。あいつらのチームに入って良かったんじゃねーの」
「そう言っていただけると嬉しいです。ZUZUさんたちの役に立てることといったらこれくらいですから……もっと力をつけて、いずれは」
サーナイトは時々、そう言いかけて口をつぐむ。まるで言いあぐねているように。
でも彼女が何を考えているかはわかる。先述した通り、奇妙に自分たちは思いが共通するから。
腐っても元パートナーだからという理由は聞こえがいいが、そんないいものではないと思う。
「やめろよ。そんなこと考えるのは」
「はい。今すぐだなんて言いません。もっと力をつけて……」
「違ェよ。今でも未来でもない。いつになったとしても、俺と共になんて考えるのはよしとくんだな。それがお前のためだぜ」
言い当てられても、サーナイトは狼狽していなかった。予想の範囲だったのだろう。目を伏せ、彼女はうつむく。手をひざの上でしっかりと握りしめ、まるで決意をあらたにするように。
「……わたし迷惑かけません。必ずいつかゲンガーさんの横に立てるほどの力をつけます。チャーレムさんやアーボさんとも打ち解けます。ですからそんなことを言わないでください……」
「ケケッやっぱそういうこと考えてたのかよ。やめとけやめとけ。こうしてたまに話をするだけでいいだろ。俺はお前の話を聞いて新しい悪戯を思いつく、お前は俺に喋って満足する。そんでいいじゃねえか」
「それ以上を望むのは……いけませんか?」
サーナイトは体を俺に向け、まっすぐに紅色の瞳で見つめ返した。
――最近、彼女と付き合うようになって気がついたことがある。サーナイトは性悪を少しも抱えてはいないが、俺と同じく貪欲だ。いや、もしかしたら俺以上かもしれない。
彼女は何かを欲している。それを、俺から得られることを期待している。彼女の貪欲さが何故俺に向いたかはわからない――いや、わかっているはずなのにそれを自覚したくはなかった――しかし奇しくも彼女によって、俺は悪意を向けられるよりも、求められることの方がよほど辛いのだと教えられた。苦しくてたまらない。
「いけなくはねえよ……でも、無駄だ。俺がお前にしてやれることは何もねえんだ」
「では! ……では、教えてください。真実を」
「真実? 真実は聞いただろ。お節介なZUZUたちがお前に喋ってくれた通りだ」
「違います! 真実がどうであったかなのではありません! 『あなたの口から』、真実はどうだったのかを聞きたいんです! あなたはわたしを愚かだと思いますか? わたし自身にもわからない……あなたには、ゲンガーさんには、ただわたしを救っていただいただけではない、何かを感じるのです。それが何なのかを教えてほしい……」
――そう切に懇願されても、俺にはサーナイトが望む言葉を伝えることは出来ない。
彼女には俺の記憶がない。
それはキュウコンの呪いを解いた代償であり、罪を犯した俺への罰でもあるだろう。自分は全てを失ったのだ。人間でなくなった今、弁解することも許されない。例えこれまで遭った『事実』を伝えたとしても、俺が今ゲンガーである以上、それは『真実』ではないのだ。
『俺』はもういないんだ。
まるで“呪い”をかけられたかのように胸が痛むたび、無邪気に思いをぶつけてくるだけの彼女を恨んだこともあった。
(……せめて、俺の中のサーナイトの記憶も失っていれば)
サーナイトと再会した喜びさえも失うこととなる。けれど同時に、罪を犯した苦しみも忘れることが出来る。もしそうだったなら、俺は目の前のポケモンの望みを何のわだかまりもなく受け入れて、そばに置くことが出来るのに。
失えば。忘れれば。
「……ケケッそうだな。もし……もしだぞ。何かトラブルがあって、俺がお前を忘れちまったらどうするんだ?」
そんな自分の唐突とも言える言葉に、サーナイトは一瞬目を見張り、そして紅珠の瞳を悲しげに歪ませた。
「ありえません。……そんなこと言わないでください。寂しいです」
「確信なんて出来ねぇだろ。お互いこういう生業だ。いつどうなるかわかんねえ」
「それでもです。……そうですね、もしわたしがあなたを忘れてしまったとしても…私の体や心は、きっとあなたを覚えているでしょう。だってゲンガーさんは……あなたは、ここにしかいないんですもの。その真実がある限り、わたしは……
記憶なんて、ただのあやふやな抽象物にすぎません。きっとわたしの心は、あなたを忘れないでいる」
「現にわたしはこうして今、あなたの目の前にいるではありませんか」
そう言ってサーナイトは、あの頃と同じ微笑みを宿した。
今でもこれだけは覚えている、あの時、サーナイトがキュウコンの祟りを受けたあの時――体が強張り消え行こうとしているのに、俺に「大丈夫ですか」と微笑んだ最後の瞬間――
あの時と、同じ微笑みを。
「! サーナイト、お前」
俺は過去を捨てた。姿を変えた。名前を亡くした。あの頃と同じものは、何一つないと絶望した。
それでも、それでも。
俺自身の心は、まだお前の中で生きているのか。
19.たった一人の君
(忘れないでね/忘れてなんてやるものか)