「大丈夫ですよ。アリシアが治してあげますね」
まるで小鳥が楽を奏でるかのような美しい声で、少女はそう言った。

確かに、私はケガをしていた。偶然降り立ったこの地で、その場にいたポケモンたちと折り合えず彼らから攻撃をしかけられた。エルレイドのリーフブレード……ロズレイドの蔓の鞭……レントラーの放電。一斉にそれらを受けた体は、酷く痛んだ。悲鳴をあげた。彼らを退けても空へ逃げ出すことも叶わず、大木に寄りかかるだけで精一杯だった。
そこに少女が現れた。驚きこそしたようだが、怯えはしていなかった。むしろ酷く警戒したのは私だった。しかし体を強張らせる私を気にすることもなく、少女はポケットより取り出したハンカチを小刀で切り裂き私の腕に巻いた。そして先の言葉である。私の腕に触れた少女の手に、得体の知れない者への恐怖は見られなかった。
「はい、これでもう大丈夫!」
布を巻いただけである。それもまだ手先の機微さを身につけていない少女のすること、今にも包帯は外れていきそうだ。しかも、医学の心得のある者が見たわけでもない。薬をつけたわけでもない。
ゆえに、この体の痛みがひくはずもなかった。けれども、何故か体は軽くなった。
「立てますか?…………まだ痛いのなら、少し休んでいくといいです」
動く気配のない私を見て、少女は隣に座った。そして改めて、見たことないポケモンさん、はじめまして。私はアリシアです、と軽くスカートの裾をひき挨拶をした。
ニンゲン……人間。この少女はポケモンではない。ありしあ……アリシア。この少女の名前。
「ねえ、あなたは何という名前なのですか?ポケモンさん」
(……私は……ダークライ)
いささか少女の目が驚きに見開かれた。しかしすぐに、その碧眼は喜びの色に満ちた。
「話すことが出来るのね。……ダークライ。それがあなたの名前……ダークライ、ダークライ。いい名前」
太陽を背にしても、アリシアの笑顔は輝いていた。
長い睫毛がふわふわと風に揺れ、薄色の唇は緩やかに口角を上げる。
……煌々と照らす天上の光は、暗黒ポケモンである私を苛む。けれども、アリシアの柔和な笑顔は私を癒した。彼女の小さく暖かな両手が、私の手を包む。
「ねえダークライ。あなたは優しいですね」
(優しい……?)
「だって攻撃をしかけてきたポケモンを、攻撃するんじゃなくて眠らせたんだもの。催眠術……とはまた違った術でしょうか……びっくりしたけれど、でもあなたは他人を傷つけない。あなたは優しい……。きっと皆があなたを好きになります。これからも、ここに遊びに来てくださいね」
(……遊びに……来て、いいのか?)
「もちろんですよ。ここは、みんなの庭ですから」
ここが何処かはわからない。ただ落ち立ったこの場所は、豊かな緑と水飛沫をあげる噴水があって……美しい、と感じた。そしてその中心に立つアリシアを、私はその時守りたい、と強く感じた。

いつの間にか先程攻撃をしかけてきたポケモンたちが、おずおずと少女の背に立っていた。その目にもはや攻撃性は認められない。存在に気づいたアリシアが彼らに声をかける。彼らにも私と同じく、傷は大丈夫ですか、と。眠らせただけだ、傷などはない。けれどもアリシアの優しさは心の傷を癒す。彼らは嬉しそうに頷き、アリシアに擦り寄った。
少女は兎角優しかった。全てを愛していた。この庭を、ポケモンたちを。そして彼らも同じ思いだった。私が憎いのではなく、この庭に降り立った私を、この庭を侵そうとするのかと警戒していただけだった。この庭を守っていた。何よりポケモンたちは皆アリシアを愛していた。そして、愛する少女が愛するこの庭を、愛していたのだ。
しかし世界は彼女やポケモンたち程純粋ではなかった。得体の知れないポケモンを、酷く恐れた。私と一緒にいることを、周りは良しとはしなかった。そして私は器用ではなかった。少女以外に愛されることは出来なかった。庭を、少女を守ることしか出来なかった。
庭を守ることは簡単だ。しかし、少女を守るのはすこぶる難しかった。そばにいれば、少女を結果傷つけることになる。私がそばにいることでアリシアは傷ついてしまう……。そばにいることさえ許されない。
そしていつしか、私はアリシアの前に姿を現すことが出来なくなった。アリシアも始めこそ私を探し庭を駆け回っていたが、そのような関係すら時間はけして許さなかった。

少女は女になった。
彼女は、子どもではなくなった。
庭で遊ぶことも日に日に少なくなり、忙しそうに街を走っていた。
ある時、彼女はある男と出会った。
彼女に優しく接するその男に、アリシアは惹かれていった。忘れかけていた笑顔を見せた。
彼女は一層美しくなり、白無垢を着飾った。
しばらくすると、アリシアは子を成した。
アリシアによく似たその子は、見る間に成長し、また子を成した。
アリシアの生命は、受け継がれていった。

時々アリシアは振り返っていたが、いつしかその動作もなくなってしまった。
けれども、私は彼女を見守っていた。いつでも、この庭で。


そしてまたこの庭に、一人の少女が現れた。普遍の緑と水を持つ美しい庭園。ゴーディの庭などと持て囃され大事にはされているが、実際ここにくる者は少ない。日々の生活を忙しく送る者たちは、ゆっくりと庭を散歩することさえままならないのだ。そんな状況で久しぶりの人の気配を察知したポケモンたちが、ぴくりと耳を動かし体を起こす。しかし少女の姿を見るや否や、警戒を解き擦り寄った。少女は優しく微笑み、それを受け止める。まるで在りし日の少女……アリシアのように。
少女はポケモンたちを伴い、庭で一番大きな木に腰を下ろした。ポケモンたちもつられ、その場に再び体を寝かせる。
「おばあちゃんがよく言っていたの。昔ここで大切なお友達と出会って、よく遊んだんだって。でも、ある日会えなくなってしまった……悲しかった。寂しくて、振り向いてばかりいたって」
少女……アリスは誰に語りかけるでもなく話をする。 その声や横顔はアリシアに生き写しとも言えるほど酷似していて、彼女の血縁であることを如実に物語っていた。
「けれども、ある日悲しくなくなったの。何故なら、お友達は私の心の中にいつでもいるんだって思えるようになったから。目を閉じれば、いつでも、私の所へ遊びに来てくれるんだって。それって、誰のことなのかなって私いつも思っていたの。私も会いたいなって思ってたの。でも、おばあちゃんが亡くなってしまったからもうそれが誰だったか知ることは出来ないと思ってた……でも、やっとわかったの」
大木の枝に結え付けられたブランコが、風もないのにキィキィと揺れた。
「おばあちゃん幸せだったって。この庭でたくさんのお友達と遊ぶことが出来て、大切なお友達と出会うことが出来て」
まぶたを閉じたアリスに、影が落ちた。木陰よりも一層濃い、黒い影が。
影は何も喋らない。でも、そこにいる。いつでも見守っている。それは不快ではなかった。
さやさやと揺れる風を受けながら、アリスは安らぎを感じていた。


14.明日のことを
(明日も一緒にいようね/傍にいてやるよ)