シャ、と戸が開く。同時に、ブン、と光が一斉に灯る。ゼロが一歩ずつ歩みを進めるごとに、廊下の側面に設置された画面に深々と頭を下げる少女の姿が映し出された。少女はちかちかと光っていて、焦点があわない。体は透き通っていて、奥行きを持たない。
『お帰りなさいませ、ゼロ様』
幾層にも反響された声が、あらゆる方面から聞こえてくる。それは低い声にも高い声にも聞こえるし、もしや脳に直接響いているのではないかと思うことすら出来る“音”だった。一つ一つの音が、重なって言葉となる。言葉は声となってゼロの耳に届くが、しかしそれは生きた人間の声ではけしてなかった。
「インフィ。首尾はどうだ?」
『上々です。ギラティナはここより、東に約120km離れた地点を徘徊しております』
自分に忠実に仕える少女は、現実のものとして生きてはいない。師匠と離れてから、師匠の棄てたこの航空母艦を自分のものとしてから組み込んだ人工知能だ。
反転世界を手中にするという計画は広大すぎて、いくらゼロとて一人では背負いきれない。共に進む者が必要だと思った。しかし自分は反転世界を愛し、現実世界を嫌っている。現実に存在する全てのものが醜く見えて、同士を探そうという気になれなかった。
だから、自分はインフィを作り出した。インフィという少女は余計なことを言わない。ただ自分の言うことを忠実に遂行し、後ろで常に微笑んでいる。ゼロはインフィをわが身も同然に感じていた。
「そうか。では、次のギラティナの浮上ポイントを推測せよ」
『了解しました、ゼロ様』
目を伏せ、インフィは手を胸元に重ねる。……彼女はゼロの一つ一つの命に、常に深く拝していた。まるで感謝を伝えるように。彼女はどんな細かな命令にでも、ゼロが何を言っても異論など勿論唱えない。自分が作り出したのだから、当たり前のことだ。それに満足感を覚えるなど、酷く滑稽だ。
けれどとても気分が落ち着くのだ。インフィがそばにいることで、夢が現実となる場面を想像することが出来る。それは自分が彼女をよすがとしていることに他ならないだろう。
……まるで懸想をしているようだ、と自嘲気味に思う。温度も、感情も持たない人工知能を想うなど。
恋とは、相手が存在して相手の反応があって初めて成立するものであるのに。
『ゼロ様』
右と左から、同時に声をかけられた。自分のちょうど右方と左方に存在するコンピューター画面から、“二人”のインフィが話しかけてきたのだ。
『ギラティナ浮上ポイントを推測しました。このまま東へ真直に進みます』
「ああ」
インフィは常に真面目だ。自分が命令したことをこなす。逆に言えば、それしかこなさない。当たり前だ、組み込まれたことしか彼女は知らない……自分のためにギラティナを探すこと、メガリバを操縦すること。それだけだ。
それなのに何故これほどまでに、自分は焦心しているのだろう。
『ゼロ様』
再び、ゼロに少女の声がかかる。最も、二人だったその姿は消え、左方からの
「何だ。ギラティナの予測浮上ポイントが変わったか」
『いいえ、そこまでには時間がかかります。……少し、お話をしてもよろしいでしょうか』
苛立たしさを抑えるために机をたたいていた指が止まる。――インフィがそのようなことを言い出すのは初めてだった。思わず左方の画面に目を配った。インフィは真っ直ぐにゼロを見据え、その表情に失言だったと感じているような素振りはない。
「……話してみろ」
『この世に生きるあらゆる生き物には胸に心の臓というものがあるそうですね』
「そうだ。人間のみならずポケモンの急所でもある厄介なものだ」
『私の知能の中にも、心臓は人やポケモンが生きるに最重要な血液循環系の中枢器官だとインプットされています。更には、人が何かを思う時発信源となる比喩的なものとも。では、ゼロ様は私に心臓をお作りになりましたか』
「何?」
『ゼロ様のおそばにいると、ここが激しく鼓動していてうるさくてなりません。自らでは制御できませんし、……故障でしょうか』
インフィは胸部を押さえ、無心に尋ねた。その質問に他意はなく見えた。虚心坦懐に、ゼロに疑問をなげかけている。自分を作り出した主人に。
『心臓は鼓動するものです。しかし、何故このようにも激しく震え動くのでしょう』
ゼロは一瞬混乱した。生物には確かに心臓がある……“この世に形を持って生きる者”には。それはつまり、“この世に形を持って生きていない”インフィには心臓などないということだ……そして彼女に似た機能を組み込んだ覚えもない……。それを説明する適当な言葉は。
(……発展……もしくは、成長?)
まさか、人工機能が。
ロボットが経験を積むことで学び、自ら考えることがあるということはある。しかしそれは危険から避けるとか、一度失敗したことを成功させるだとか、そんな“つまらない”ものだ。“胸をときめかせる”など聞いたことがない。ましてや彼女はバーチャルな存在……。
次の言葉を待つインフィに、自分がやっとかけられた言葉は。
「……嬉しいことだ」
自然と口から滑り落ちた言葉だった。それに対しインフィは人のように眉をひそめることもなく、『嬉しい?何故ですか』と真顔で返答した。
「お前がここに存在し、確かに私を感じているという証拠だ」
『ゼロ様を感じる……よくわかりません。私にインプットされた知能に組み込まれていないようです。申し訳ありません』
「謝ることはない。安心しろ。お前の心臓が壊れたその時には、私が責任を持って直してやる。何度でも……お前は必要な存在だからな」
『光栄です。ありがとうございます』
顔色一つ変えず(当たり前だ、インフィは照れるという感情を知らない)、彼女は生真面目に答える。
それからインフィはまた黙り込んだ。数十分後に、『ギラティナを発見いたしました』といつも通りの言葉を発するまで。
足を組みなおし、画面を見つめる。画面の上には、目的のポケモンが輝く座標となって浮かび上がっていた。もうすぐだ。もうすぐで私の夢は現実となる。
『行ってらっしゃいませ、ゼロ様』
再び姿を増やしたインフィの重なる声々を背後に聞きながら、ゼロは蒼空へと赴いた。何処か清朗な気持ちを、胸に携えて。
11.胸の痛み
(心臓が壊れたら、どうしてくれるの/その時は責任もって直してやるよ)