「マーズさま!マーズさま……!」
部下が自分の名を必死に叫んでいる。そしてカツカツと廊下を走る音が自分のそばを過ぎり、そして遠ざかっていった。
そっと影からその方向を伺えば、直属の口うるさい部下がちょうど奥の角を曲がっていくのが見えた。
馬鹿ね、と一人マーズはほくそ笑む。このアジトでの追いかけっこで、私に敵う者なんているはずがないわ。
最も、我らがギンガ団の下っ端は皆同じ髪型をしている……統率するためだ……もしかしたら今角を曲がっていった下っ端も、違う下っ端だったかもしれない。
けれどもそれから少し経っても廊下はシンと静まり返るのみで、部下どころか他の下っ端すら、はたまたポケモンすら通りかかるような素振りはなかった。
そこまで確認して、マーズはやっと廊下へと躍り出る。んーと大きく伸びをして、部下が走っていった方向とは別の方向へと足を向けた。
追いかけてきた部下はとても優秀で、仕事熱心だった。将来を期待され、いずれ部隊長くらいにはなれるだろうという有望な者。ただ不幸だったのは、上司がマーズだということだった。今日も今日とて生真面目に仕事内容を彼が伝えた瞬間、マーズに逃げられた。
こんなに暑いんだもん。仕事なんてやってらんない。
ぱたぱたと手で扇ぎながら、マーズは廊下を進んだ。廊下はとても静かだ。何故って、その理由はわかっている。皆仕事中で部屋にこもっていたり外出しているからだ。
そう考えると、何だかとってもいい気分だ。だって今こうして自由に歩き回ってるのは自分だけ。その優越感ははかりしれない。
けれども、こうしていつまでも廊下を悠々と歩いているわけにもいかない。勿論それは何処かであの部下と遭遇するかもしれないという危惧もあったが、最大の理由はそれではなかった。
嗅ぎ付けるのよね、あいつが。
そう思いながら通り過ぎようとしたある部屋に、その最大の理由が居た―――多くの下っ端の前に立って、何かを話している。
「うげ」
思わずそんな声が無意識に漏れてしまった。最も部屋の中の“最大の理由”はドアを隔てているため、そんなマーズの声は聞こえなかったようだが。
透明ガラスのドアは、中にいる者たちの姿だけははっきりと見える。部屋の中にいる多くの下っ端たちも、その前に立つ男……サターンも、書類に目を通して何らか話をしている。今度行うという作戦についての話し合いでもしているのだろう。声こそおおよそにしか聞こえないものの、顔を見れば作戦に賭ける彼らの真剣さは見てとれた。
こんな場面でもしサターンに見つかりでもしたら、怒られるだけではなく下っ端たちにも示しがつかないだろう。早々に立ち去った方がいい。しかし何故かそれが出来なかった。ひんやりとしたガラス戸の冷たさが気持ちよかったからか、はたまた。半分姿を隠しつつ、マーズは中の様子を凝視した。
(サターンが眼鏡かけてる)
仕事中、サターンはたまに眼鏡をかけることがあった。一度その理由を聞いてみたことがあった。彼曰く、特別に目が悪いというわけではないが、かければ集中力がつくのだ、と。ともかく、眼鏡をかけている彼は……いや、かけていない普段から思っていた……サターンの顔は均斉がとれている。早く言ってしまえば、かっこいいのだ。よくケンカをする仲だから、それを認めるのは悔しいけれど。
しばらくしてサターンは手を大きく振り上げた後、下っ端たちに何かを告げた。
下っ端たちは揃って立ち上がり、サターンに深く一礼をした後乱れることなく一列となって奥のドアから出て行った。部屋に残されたのはサターンのみ。彼は多く連なる長机の、ちょうどマーズが立ち尽くすドアから直線上の机に軽く腰をかけ、眼鏡を外した。
「さて。……そこで何をしているんだろうな、マーズ?」
ドアを隔てていても、その声だけはいやに凛とマーズの耳に届いた。
「大体お前は……」
その後は、お決まりの説教タイムである。とはいってもサターンがちくちくと嫌味を発するのみで、マーズはそれを「はいはい」と適当に聞き流す。それを見てサターンが更に怒る。いつものことだ。
「今日の仕事は伝えたはずだ。お前はあんな所にへばりついて何をしていた」
「逃げてきた。暑いし、あいつ口うるさいんだもん」
「……。お前がそのような態度ではあの部下も心労が堪えないだろうな」
ああそういえば、あの部下がマーズにつくように配置したのもサターンだった。「マーズさまがお仕事をさぼりそうになったら諌めるように、と言付かっています」とあの部下はマーズと対面した初日にいけしゃあしゃあと言ってのけた。だからといってその部下を恨んだわけではなかった。マーズの恨みはサターンのみに向いていたからだ。
ああ本当にむかつく。同じ幹部なのに、どうしてこの男はこう上から目線なのだろう。
悪いのは仕事をさぼっていた自分だとわかっているからこれ以上の言い訳はしない。というより、元々彼との口論で勝てた試しはない。せめてもの反抗できっと睨みつけてやれば、サターンもひるむことなくこちらを睨みつけた。元々猫のように吊り目がちなサターンの双眸は更に厳しさを増す。彼の澄んだ碧眼の中に、虚勢を張る自分が見えた。
「……ふん。あんたなんかずっと黙ってればいいのに」
「何だと?」
「黙ってればかっこいいのにーってことよ!あたしずーっとあそこにへばりついてあんたを見てたのよ!声は聞こえなかったからあんたの顔を見てるしかなかったけど……まぁ整った顔ですこと。あんたなら黙ってるだけで女をひっかけ放題だわね」
やけになって感情を吐露してしまってから、まるで告白のようではないかと頭が急に冷えたが後にはもう引けない。さて、サターンはどう反応するだろう。彼の反応ならば「暑さで頭がイカレたか?」だろうか……少しくらい、動揺すればいいのに。
気まずさを覚え逃げ出してやろうかと思った瞬間、顎をいきなりつかまれた。いや、正しく言えば顎を手で引き寄せられ目線を合わせられた。それも鼻と鼻がぶつかりそうな程近い距離に。突然のことに叫びそうになったが、それも抑えられる。
「それだけか?」
「え?」
「つまりお前は私に見惚れたということか。何だ、私に好意でも抱いたか」
「! 誰が」
「して、それだけか?お前が私のことを好きなのは顔だけか」
普段なら「何言ってんのよ、自惚れないでよ」とでも叫べただろう。「離しなさいよ」と顎に添えられた手を引き剥がすことも出来ただろう。しかし、サターンはからかう素振りもなく真顔だった。そのためマーズの余裕は一切無くなってしまった。目の前の相手の意図を量り知ることが出来ず、言われた言葉を鵜呑みにすることしか出来なかった。
「……顔だけじゃないに決まってるじゃない……声も、態度も……」
「……ふん、相変わらず語彙が少ないな。私なら言えるぞ。私がお前を好きな所やお前の可愛い所を。何なら今ここで語ってやろうか」
「なっ……!」
馬鹿にされた怒りやいきなり何を言い出すのかという困惑やその他様々な感情が混ざり、目が回ってしまいそうだった。混乱している時は何の言葉も発せられないというが、まさにその状況だ。ぐ、と喉がつまる。ついに黙ったマーズに、サターンはやっと口の端を持ち上げて微笑した。
「……これで懲りたなら、早く仕事に戻れ」
顎から手が離れたかと思えば、熱い頬を思い切りつねられた。そして何事もなかったかのように机上に散らばっていた書類を手早くまとめ、部屋から出て行こうとする。一瞬反応が遅れたが、すぐに頬の痛みがジンと伝わってきた。
「何すんのよ!!……からかったのね!」
乙女の気持ちを、とか、冷徹男、とか浮かぶ限りの言葉を全て口にした。しかしそれらのマーズの叫きを、サターンは全て一笑に付した。
「からかう?全て本音だが」
さらりと告げて、サターンは去っていく。マーズはといえば、力が抜けてその場にあったイスに座り込んでしまった。
……こんな調子じゃ、やはり仕事には戻れない。顔を酷く紅潮させた自分に、あの部下はまた「どうしましたか」としつこく追究しようとするだろうから。
1.目が合った、その瞬間
(ずいぶんと男前だなぁって/それだけか?)