ゲンにとって「波導を感じる」ということは、匂いを鼻で嗅ぐとか、目で物を見るとか、五感のそれとほぼ同一のものだった。人はそれをシックス・センスと呼ぶかもしれない。間違ってはいないだろう、ゲン自身も他に名前のつけようがなかった。
とにかくこの第六感を、今まで便利だとか不便だとかそんな範疇で考えたことは一度もなかった。人間が他者を見て無意識に感じる“何か”を、便利だとかそういう風に考えないのと同じように、ゲンはこの力と生来共存してきたのだから。

鋼鉄島――かつては豊富な資源を求め作業員で賑わっていたこの島も、役目を終えてからはひっそりとしていて、今はただ人間が残していった遺物を住処とする野生ポケモンたちが生存しているのみ。己を鍛えることを目的とするトレーナーを乗せるシンオウ丸が不定期に来る他には、人影もない。
ゲンは今、そんな鋼鉄島で相棒のルカリオと寝食を共にしていた。街を転々としてミオシティに居住を置いていたこともあったのだが、それほど規模の大きくないミオシティであっても、他者から発せられる波導の多さはゲンにとって疲労にしかならない。トウガンの勧めもあり、ゲンはそれから間もなくこの鋼鉄島へ移り住むことになった。トウガンとは彼の息子のヒョウタを含め、今でも家族ぐるみで親しくさせてもらっている。能力を買われいずれミオシティのジムリーダーにと望まれたこともあったが、ゲンにその気は全くなかった。それはヒョウタのことを気遣ってということもあるが、訪れる挑戦者の全てを相手にして力量を測り、結果敗北にせよ勝利にせよその挑戦者が更に成長していけるように助言したり時に見本を見せたり……そのようなジムリーダーの責務が、面倒でしかなかったからだ。
“自分の手で育てるのなら、選ばれた者のみを”
我ながら生意気な発想だと思ったが、そう発言をした時トウガンは「お前らしい」と豪快に笑ってくれた。
「よしわかった。私が見極めて、いずれお前の元へ有望な若者を送ろうじゃないか」
「ええ、期待しています」

それは言わば砂漠に在る膨大な砂の中から、金と呼べる砂粒を見つけ出すにも等しいこと。無論容易いことではない。途方も無いその約束を当人であるゲンすら忘れかけていたある時、トウガンから思いもよらない連絡が舞い込んできた。
『見つかったぞ!』
「何です? 藪から棒に」
『以前言っていたじゃないか。有望な若者だ』
「金の砂粒ですか? 見つかったんですか」
「いんや、金の砂粒というか……何だ、今はまだただの砂利みてェなもんだ。だが可能性がある。お前の手で磨いてやってくれ」
いまいち曖昧な発言に疑問は多かったが、結局トウガンの頼みならば断れないというのが本当の所だった。
(仮にもジムリーダー。見る目はあるしトウガンさんは野生の勘みたいなものがあるから、“間違いだった”ということはないだろう)
ゲンはそう考え、自身を納得させた。しばらくして定期船シンオウ丸が鋼鉄島に着き、“金の砂粒”がゲンの元にやってきた。おっとりとした少年ダイヤモンド。手持ちも主に似ておっとりとした重量級で、指摘すべき、鍛えるべき箇所が多数あった。ひとまず巨悪に立ち向かうという彼の暫定的な師となり、特訓を開始したのだが。
(……ふむ)
間違いどころか。ゲン自身も、ダイヤに大きな可能性を感じるようになっていった。

ダイヤに修行を施しながら、ゲンは時々感じていた。
(こんなに色々なものを感じる波導は、初めてだ)
スピードが足りないと言われ落ち込む波導。どうしたらいいのかと迷う波導。足りないものを補うため、努力しなければという波導。手持ちをいつでも信じているという波導。目的のため自らを奮い立たせる波導。
まるで増水した川のように、ダイヤの波導がゲンに流れ込んでいる。近くにいる分怒涛ともいえる量だったが、不思議と不快と感じることはなかった。都会にいた頃の他者の波導とは違い、ダイヤのそれはどれも澄んでいて、清らかと呼べるものだったから。他の者の波導もこれくらい清廉であればいいのに――そう感じることすらあるほどだった。小鳥が美しい音楽を奏でているかのように、彼の波導を感じるのはとても心地が良い。喜怒哀楽、くるくると変わっていく彼の波導は、忘れかけていた心の躍動を思い出させてくれる。
(……否)
唯一つ、常にダイヤを取り巻き渦巻く波導があった。それだけは、どうしても読み取れない。まるでノイズがかかり、いつまでたっても音の聞こえ辛いラジオのようにゲンに捉えられるのを拒んでいる。意識的なものではなく、無意識だろうとゲンは感じた。波導を感じられないようにするなど、不可能だからだ。そのような事態は初めてのことで、あまり他人に深く干渉しないゲンもそれが何なのか知りたくなった。

「キミのその思いは、何だろう?」
夕食の用意をするダイヤの背に、ゲンは言葉を向けた。「え〜?」と、ダイヤは気のない返事をして、振り向いた。その手には山盛りの木の実、夕飯に使われる材料は今にも彼の腕の中から零れ落ちそうだ。
「私が波導を読めるってことは伝えたね。キミの波導はどれも強く、次々に私の中へ流れ込んできて読みとるのが忙しいくらいだ」
「わわ、ごめんなさい」
「責めてるんじゃない。ただ、一つどうしても読みにくい波導がある。ちらちらとキミの周りには見えるんだが、感じようとすると引っ込むものがある」
「ゲンさんでも、読み取れない波導があるの?」
「勿論。私は人間だ。本当に細やかで、微弱で、はっきりとしない波導は読み取るのが難しい時がある。ルカリオはその限りではないが」
ルカリオは誇るように、クンと鼻を持ち上げた。
「うーん……ゲンさんでもわからないのなら、オイラなんてもっとわからないと思うよ」
「自分のことだろう?」
「だからだよ」
ダイヤが手に持っていた木の実ノワキは、彼の手から離れた瞬間細切れとなりボタボタと鍋へ落ちた。傍に控えるドダイトスから放たれた葉っぱカッターが、均等な大きさに切り刻んだのだ。ドダイトスの葉っぱカッターが素早さ・精密さ共に精度を増している。いつの間に?以前は、荒削りも荒削りで、下手な何やら数撃ちゃ当たる――そんな様子であったのに。
「自分のことなんて、自分が一番わからないんだ……だから、オイラゲンさんに出会えて良かったと思うんだ」
「?」
「オイラに足りないものがわかった。今までのオイラだったら、きっと“スピードが足りない”って言われても“そうかなあ、それがオイラの持ち味だし、るーやべーたちの良さだよ”って言い訳してたと思う。でも今は大切な人たちを守るために、変わらなきゃって思うことが出来るようになったんだ。でも変わるのって難しいし、一人じゃ尚更難しい。何をどう変わればいいんだろ?って悩んだと思う。だから、オイラに足りないものを言ってくれるゲンさんに逢えて良かったって思うんだ」
「……それは……私じゃなくとも、少し腕のたつ者ならばキミの欠点を同じく指摘することが出来ていたと思うが――仮にトウガンさんに習っていたとしても、同じ結果に……否、もしくは私より良い結果になっていたかもしれない」
「ううん、違うよ。ゲンさんだからこそだよ」
何故?そう問おうとしたはずの声は、口から言葉となって出て行かなかった。ダイヤは自分を敬ってくれている。理由はどうあれ、「自分だからこそ」と言われることは嬉しいことだ。それを無闇に「そうではない」と否定することは無粋というものだろう。好意は素直に受け取るものだ――。
ダイヤの背後で、くつくつと火で炙られた鍋が蓋を浮かせた。
「あ、ゲンさん。もうすぐでスープが出来上がるから待っててくださいね〜」
そう言って再びダイヤが背を向けたため、ゲンも会話は終わったと判断し目線を下に落とした。それゆえ、最後に呟いたダイヤの一言をきちんと聞き取ることが出来なかった。
「……強くなりたいと思うのは、罪滅ぼしのため――自分のことだけを考えて、解っていたことを、解らない振りしてた。秘密を黙っていた。そうして大好きな二人を騙した、自分への戒め」
「……何だって、ダイヤくん?」
今彼は、何と? 聞き返したゲンに、ダイヤはもう一度だけ振り返った。
「オイラの“大切な人”の中には、ゲンさんも入ってますよ」
そう言って、にこりと微笑んだ。そうして今度こそ、彼は料理をゲンに振舞うまで振り返ることはなかった。
……また、この波導の色だ。もやもやとしていて、よく読み取れない。まるで薄い灰雲に覆われた、月のように。薄霧に隠れた、道標のように。ぼんやりと、漠然としたものしか感じ取れない。

「私はキミのことを知りたい」
そう言っても、ダイヤは困ったように笑うだけ。ゲンの眼差しから逃げるように、目を背けて。
「オイラにもわからないんです。ごめんなさい」

三日間の修行期間など、放たれた矢の如く。優秀な弟子は自分が与えた事以上を成し遂げ、鋼鉄島を後にした。今になって、ゲンは思う。足りない素早さへのコンプレックスを撥ねることや、補うことなど二の次だった。彼の武器は、あの強い意志。限りない優しさを持つが故の、害する者への怒り。
(私は少し、金の砂粒を磨いただけだった)
輝く金の粒は、先の見えない迷路の中でも自身から発せられる光で、道を明るく照らすことだろう。そしてその時、彼の“大切な人”は彼の傍にいる。自分がどうしても感じることの出来なかった波導は、その時彼から消えることになるだろう――。悪の波導が今何処ぞで蠢いていようとも、かの光の前では無意味でしかない。ゲンはそう確信していた。だからこそ、彼に“共に戦う”とは言わなかったのだ。
「ルカリオ、お前もそう思うだろう?」
常に一歩後ろに控える相棒は、スン、と鼻を鳴らし同意を示した。

これで前線にゲンさんが出てきたらどうしようかと思う