まるでそこだけ大晦日が来たのかと思った。
久々にクリスがコガネの育て屋を訪れてみると、そこでバイト―――といってもボランティアに近いものだが―――をしているゴールド(に、宛がわれている)部屋が
ちらかり放題だったのだ。
また彼が片付けをさぼっているのかと思えば、ダンボールがいくつかあったり、服が大量に出されていたりと普段とは様子が違う。
「…お引越しでもするの?」
押入れに頭を突っ込んでいるゴールドの背後からそっと声をかけると、驚いたゴールドが強烈に頭を天井にぶつけてしまった。




「ノックくらいしろよ!」
「したわよ!ノックもしたし大声で声もかけたわ!でもそれ以上にあなたのたてる音の方がうるさかったんじゃない!」
痛みに頭を抑えながら叫んだものの、クリスの言い分の方がどれだけも有利だった。逆に怒られているような態勢になり、慌ててゴールドの方が話題を変える。
「引越しっつーか、俺、こっからおさらばしてシンオウに行くことにしたんだよ」
「シンオウ…?聞いたことないわ」
「海の向こうの遠い地方だってさ。オーキドのじいさんに頼まれたんだよ。シンオウにはまだポケモン孵化の技術が少ねえっていうからな〜 ちょうどいいぜ。俺様ほどの
逸材がこんなトコで腐ってくわけにゃいかねーだろ?だから新しい地方への旅ついでに孵化のスペシャリストのこの俺がご教授してやろうと思ってよ」
「…それで服装も変えたってわけなの?」
「郷に入らば何とかって言うだろ?」

郷に従え、でしょ――― クリスが呆れてそう言うと、そうそうそれ、と彼はニカッと笑った。
ゴールドはいつものキャップと軽装ではなく、真っ赤なハンチングをかぶり、これまた真っ赤なマフラーをしていた。いつもはめていたゴーグルも畳の上に投げ出されている。
自分はそんなに流行に敏感な方ではない。これがシンオウ地方の流行最先端なんだぜ、とゴールドに言われても、そうなの、としか言えなかった。
…でもそれは、やんちゃな彼にとても似合っていると思った。

「んでクリス、お前ぇは何しに来たんだよ?あ、寂しくて俺に会いに来たとか?」
「…私もジョウトを離れることになったの。ホウエン地方へ行くのよ。オーキド博士からのご依頼で」
その時確かにゴールドは顔を曇らせたように見えた。 しかしクリスがそれを確認する刹那、また太陽のようにニカッと笑った。
「なんだお前ぇもかよ。ったく、オーキドのじいさん人使い荒ぇよな」
「…それで今日お別れを言いに来たの。」
「…そーいやシルバーはどうしたんだ?」
「ブルーさんのご両親を探してるみたいよ。自分の故郷や両親探しだってしたいでしょうに、本当にシルバーはお姉さん思いだわ」
「何処までもシスコンだなアイツ」

クリスが苦笑する。
シルバーはあの戦いが終わってから暫くはジョウトにいたものの、その後何の別れも告げず自分たちの元から去って行った。それから何日かして繋がったポケギアで話を
聞くと、「ねえさんの両親探しをしている」という言葉だけがかろうじて聞こえた。 それからの彼の音沙汰は殆どない。
それを初めて聞いた時は、「どうしてまず自分の両親や故郷を探さないのだろう」、そんな奇妙なおかしさを覚えたものだった。
しかしクリスも彼がとてもブルーのことを思っていることはわかっていたので、それ以上連絡をとることもしなかった。
皆こうやって旅立っていくのよね――― 一抹の嬉しさと、寂しさを感じながら。

「…ありがとうね、ゴールド」
「あ?」
「塾の方にたまに遊びに来てくれてたじゃない。子どもたち、遊び相手が来てくれたーってとても喜んでたもの。何せ人手が足りないものだから」
「…それだったらお前もそうだろ。 よくここに来てポケモン達の世話してくれてたじゃねえか」
「そうね…」
口にはしなかったが、お互いに解っていた。

クリスは気付くまい。 ゴールドが子どもの遊ぶ相手をしながら、掃除をしていたクリスをずっと見つめていたことを。 だって彼女は皆に優しくて、鈍いから。 
ゴールドは気付くまい。 クリスがポケモンを世話しながら、卵を大切そうに抱きしめるゴールドを見つめていたことを。 だって彼は細かい所には目を向けなくて、鈍いから。 
塾の手伝い、ポケモンの世話―――忙しい相手を手助けするため、というのは建前でしかなかった。 違う所に本当の目的があったのだ。 

「シンオウってどんな所か解らないけど…頼まれたお仕事、頑張ってね。さぼっちゃ駄目よ。体調に気をつけて、それから…」
「かーッ お前は母親かよ!」
「至極普通の心配をしてるだけじゃない! そうよ、お母さんにもご挨拶だけはしていって…」
「わーってるよ!   …つうかさ…」
「? 何?」
「仕事とか俺の体調とか、それ以上に心配することがあるんじゃねえの?」

ゴールドにしては珍しく、お茶を濁すようなはっきりとしない言葉だった。 その真意を図りかね、クリスが逆に問う。
「何のこと?シンオウの新しいポケモンのこと? それなら、またポケギアで知らせてくれれば―――」
「違ぇっての。 ったく、お前ぇの頭ン中はポケモンしかねえのかよ」
「じゃあ…」
ちょいちょい、とダンボールの上に座っているゴールドがクリスに手招きをする。
呼ばれたクリスが怪訝に思いながらもゴールドに近づく。 「お前ぇは本ッ当に鈍い」、ゴールドがそう言うと同時に―――

触れるようなキスを。

「!!」
「…ここまでしねぇとわかんねえのかお前は?」
名残惜しそうにしながらも、クリスの首にまわしていた手を離し、ぺろりと口を舐めた。
「こ、行動じゃなくて言葉で示しなさいよ!!」
「そーいうまどろっこしいこと嫌ぇなんだよな俺。何億の言葉より一つの行動のが解りやすいだろ? ま、俺は浮気なんざしねえよ、お前一筋だから心配すんな」

顔を真っ赤にし口をぱくぱくさせているクリスに、悪戯っぽく笑いかけ、ゴールドが背伸びをする。

「うっし俄然やる気がわいてきたぜ! 俺このまま旅立つわ!クリス、この荷物ワカバの俺ん家に送っといてくれ! …じゃあな!」
転がっていたリュックを背負い、ゴールドが開けっ放しにされていた窓の淵に足をかける。 クリスが口を挟む暇も無く、彼はそこからひょいと飛び降りた。
すぐに後を追い窓から下を見下したが、コガネの方へ走り去る彼の後姿だけが小さく見えていた。
庭ではお婆さんが何か叫んでいる。 その声に驚いたお爺さんも庭に出てきていて、何匹かのポケモンたちはゴールドの後ろ姿をじっと見つめていた。


…私ももう行かなくちゃ。

ゴールドの姿が見えなくなり、ふっとそのようなことを思った。彼との別れを惜しみにきたはずなのに、そんなことを感じさせないまま彼は旅立ってしまった。
ずるいわ、本当に…。 彼を置いていってしまう罪悪感があったはずなのに、今では置いていかれたような寂しさが生まれてしまっている。
…突風が過ぎ去ったような、そんな後味が。

クリスの目の前にはゴールドが彼女に押し付けていった数個のダンボールが置かれていた。 服、モンスターボール、趣味、その他などと大きく殴り書きがされている。
…この荷物たち、どうしてやろうかしら。送らずにこのままにしておいてやろうかしら。
ぶしつけな彼へ報復でもしてやろうかと思ったが、すぐに考え直した。…彼のためではない。彼のことを心配しているであろうお母さんのためだ。
(…私も一回ヨシノへ帰らなきゃ… ママに挨拶しなきゃ)
まだ旅に出ているかしら? きっとママもゴールドと同じなんだろうな。寂しがるより、「頑張ってくるんだよ」と叱咤激励するに違いない。


そっと、唇に手をあてた。 彼のいきなりの行為を思い出すたびに、頬が熱くなるのを感じる。

”ま、俺は浮気なんざしねえよ、お前一筋だから心配すんな”
「…心配なんかしてないわよ」
そんなこと、わかってたんだから。 …女を見くびらないで。



季節が変わる。 …若き者たちの新しい旅立ちを知らせる風が、穏やかに吹いていた。