そこは、質素な病院だった。
否、病院というよりは療養所……または、教会のような。そんな小さな、こじんまりとした施設だった。喧騒の街中とは無縁な、ある丘の上にある病院。
そこに、「彼」は居た。
ここに、「彼」を運び込んだのは誰なのだろう。それはわからない。しかし白いベッドの上で包帯に巻かれ横になっている彼のそばに、常にポケモン……リングマは、寄り添い続けていた。今はそばにいない、我が主のために。
清潔な白い壁、白いカーテンが風になびき、白い寝台には安らかに「彼」が眠っている。穏やかな午後だった。
こんこん。
控えめに、そのドアが叩かれる。音に反応したリングマが、咄嗟に戦闘態勢をとった。
いつも「彼」の面倒を見てくれる看護士ならば、ドアを叩かないからだ。現に、ドアのところに立っていたのは看護士よりも更に若い少年……
「彼」に危害を加えるつもりならば、容赦はしない。リングマは牙をむいた。
「構えんなってリングマ。わかんだろ?俺だよ」
人懐こい少年の笑みを見て、リングマはにわかにその牙を隠し腕を下ろす。
「久しぶりね。リングマ」
少年の後ろからもう一人、少女も姿を現す。こちらも、見知った顔だった。
警戒しなくてもいい。リングマは知っていた。目の前に居る二人の少年少女は、主の友達なのだ……。
少年少女は静かに近寄り、眠る「彼」を見た。
その表情にあったのは、「彼」を心配する気持ちでもなく、「彼」を憎む気持ちでもなく、ただ複雑さだけだった。
「本当は行きたくないのよ」
クリスはうつむいた顔で、そう言った。
いつでも顔を真っ直ぐ持ち上げて、自分の目を見つめてはっきりと発言をする彼女にしては珍しい。
「だって、彼はロケット団の頭領なのよ。あの事件で、
あの残党たちは、本当に従うべきリーダーがいなかったからまとまりもなかった。だからそれほど怖くなかった。でもあの数を束ねていた頭領……わたし、はっきり言って怖いわ」
「でも、シルバーのオヤジだぜ」
「ええ。ええわかってるわ……会わなくては、いけないもの。わたしたちの親友のために」
だから、ただ怖がってはいられない――クリスは、そうしめくくった。
「……全然似てねえな」
たっぷりと彼……サカキを見てから、ゴールドはそう言った。
「うん……そうね。シルバーは、お母さん似なのかしら」
「ハン、通りでアイツ女顔なわけだ」
「ちょっと、失礼よ。……でも、お休み中だったのね……せっかく会いに来たけれど、またにしましょうか」
「いや、その必要はねぇみたいだぜ?……おっさん、起きてんだろ?」
クリスがサカキを見返すと、眠っていたはずの彼の双眸がゆっくりと開かれた。
黒い髪と同じく、黒い瞳だった。光は宿っておらず、深い黒が泳ぐだけ。そこに、深い絶望すら在るような気がした。白い肌は血色が悪く、実年齢よりも幾分か老け込んでいるようにすら見える。目元や口元に深く刻まれた皺も、彼の苦悩そのものを表していた。
乾いた薄い唇が、「息子の知り合いか」、とだけ呟いた。
「ああ。知り合いっつーか、腐れ縁っつーか。まぁ、まだ知り合ってから短いが知らない仲じゃねえな」
「幾年の仲かは知らぬが、きっと私より長い付き合いなのだろう。何せ、息子が私の元にいた期間はたった2年だ……」
――これが、あのロケット団のボスか。
あまりに覇気の無い言葉に、クリスは閉口した。頭領であるからには、例え床に伏せっていようとも禍々しい悪意がその体を包んでいると思っていた……しかし現実は。目の前に居る彼は。
ただの怪我人だ。息子を愛する、ただの父親だ。
「……あんま今は考え事すんなよ、おっさん。酷ぇ火傷なんだって?まずはそれを治すのが先決だ」
「息子は……シルバーは、どうした……?」
泳いだ瞳が、ゴールドとクリスをとらえる。
――サカキの言葉に、二人は咄嗟に返答が出来なかった。
シルバーはここにはいない。それこそが、『二人がここにいる理由』だったからだ。目の前の男が最も求める少年は、自分たちが最も求める少年は、今はもの言わぬ石像となっている。どれほど声をかけようとも、何の反応を返すこともない。
彼はいつも寡黙だった。けれども、何の感情も示さないということはなかった。二人が笑えば、彼も控えめに笑った。二人が怒れば、彼も控えめに怒った。二人が悲しめば、彼も控えめに悲しんだ。それが、今は。
それを初めて目にした時、自分たちが感じた絶望ははかりしれない。何でこんなことに、と繰り返し叫ぶゴールド。言葉にもならず、ただ顔を覆い涙を流すクリス。そんな彼らを前にしても、シルバーはただ黙って空虚を見つめていただけだ。
そんな絶望を、傷心の目の前の男にも味合わせるわけにはいかない。そのために、自分たちは今ここにいるのだ。
「シルバーは無事なのか……」
「安心しな。無傷だよ。……うん、照れてんだよ。そりゃ、何年も会ってなかったオヤジがいきなり現れたんだからな。だから今すぐ再会ってわけにゃいかねーけど、近いうちにゃ……」
「……そして、嘆き蔑んだだろう。父が悪の頭領をしていると知って。だが、それでも良い……私は、息子をこの手に取り戻すためにロケット団を起てたのだからな……」
「お、おいおっさん」
「――ロケット団頭領、サカキ!」
クリスが声を張る。
先程まで静かに佇んでいた少女のいきなりの言葉に、ゴールドは勿論サカキも視線を移した。
……クリスは震えていた。水晶のように透き通った瞳も、潤み震えている。
「悪の組織を結成し、ポケモンの搾取、ポケモンの改造実験……あなたは何の罪も無いポケモンや人を苦しめていた。それが結果息子を探すためだったとしても、あなたのしていたことは、恥ずべきことです。許されることではありません!……でも、シルバーは」
クリスの柳眉が下がる。
口をつぐみ、慎重に言葉を選んでいるようだった。
「……シルバーにとっては、たった一人のお父さんです。だからシルバーも、きっとわかっていると思います。そこまでして、自分を探してくれていたことに感謝していると思います。だってシルバーは、とても優しい人だから。シルバーも、あなたに会いたいと思っているはずです。今はまだ会うことは出来ない……けれど、必ず……わたしたちが、あなたの元にシルバーをつれてきます」
「……いい友に恵まれたのだな。息子は……」
サカキが瞳を閉じる。頭上の窓から光が差し込み、いっそう白い肌が際立って見えた。
「シルバーと離れてより10年以上。どのような生き方をしてきたのかと不安ばかりだった……しかしやっと姿を見ることが出来た。言葉を交わすことは出来なかったが、こうして息子を想ってくれる者に出会うことも出来た。
……仮にも悪の組織の頭領がこのようなことを言うなど、滑稽に思うか?確かに私は悪を極め、中途半端な悪を嫌った……しかしそれでも、そのような形振りを捨ててでも……私は、息子が大切なのだ」
「わかるぜ。だからよ、おっさん。もう少し待っててくれよ。……そうだな、二ヶ月くらい……そんだけしたら、ぜってーシルバーを連れてくっからよ」
壁にかかったカレンダーの日付を、ゴールドが指でなぞった。キレイハナが踊る絵の下には、“五月”の文字が書かれていた。それを2枚めくった先には、ラプラスが海上で穏やかに微笑む絵……七月。
ますます蒸し暑さを増し、夏にむけて太陽の勢いが盛んになる夏……しかし今は、それをただ待ち受けているだけではいられない。
取り返すためには、こちらから動かねばならないのだ。
「ったく、今年は穏やかに誕生日も迎えられそーにねえな」
「それまでには問題も解決してるわよ。いえ、解決させなければいけないのよ」
「へーへー。全部終わったらせいぜい皆で盛大に祝ってもらうぜ」
「祝福は、されなかった」
「……は?」
未だ目を閉じたままのサカキが、呟く。あまりの小さな声に、独り言かとすら思った程だ。
「息子だ。シルバーは、尊い日に生を受けた。聖母が神を産み落とし、世界に福音をもたらす前触れの日……私にとっても、尊い日だった。しかし、離れ離れになり――周りが神の生誕を祝福する中、私は一人嘆くばかりだった。私にとってはこの10年、呪わしい日ですらあったのだ。何故そばに息子がいないのかと」
「前触れの日って……アイツ、イヴ生まれなのかよ?かーキャラじゃねぇなあ」
「ゴールド!……わたしたち、シルバーの誕生日知りませんでした。多分、シルバー自身も知らないと思います……とても尊い日だわ。前触れの日だからじゃない。いつもわたしたちのそばにいてくれる、シルバーが生まれた日なんだもの。
これからは、もう呪わしい日なんかじゃありません。そうでしょう?シルバーはもう、あなたのそばにいることを約束されたのですから」
カン、カン、カン。
乾いた鐘の音が、遠くから聞こえてくる。それは面会時間の終了を知らせる鐘だった。何処からか、ぱたぱたと廊下を走る音も聞こえてくる。
ゴールドとクリスも、立ち上がった。
「じゃあな、おっさん。火傷も病気も、頑張って治せよ。病は気からって言うしな」
「あなたは罪を負っている。それは変わらない事実です。でもそんなあなたをシルバーは赦して、父と呼ぶでしょう。だから……待っていてください。その日は、必ず来ます」
サカキは何も言わなかった。
ゴールドとクリスの後ろにいたリングマが、小さく鳴いた。まるで、休息の時間だと二人に伝えるかのように。そんなリングマを撫で、二人は病室を退た。
「……やるしかねえな、クリス」
「ええ、ゴールド」
――ここは、喧騒とは無縁の丘。ここで療養している男の素性など、誰も知らない。
ただ静かな時間だけが、流れていた。