「ドードリオ!!」
バトル・フィールドの向こう側で、対戦相手がやった、と叫ぶのが聞こえた。
ドードリオが相手のサーナイトの「サイコキネシス」で地面に叩きつけられ。オレの目の前でドードリオは低くうめいた後、動かなくなった。




負けた。言い訳しようのない、完璧な敗北だ。
対戦相手が満面の笑顔でオレに近づいてきて…ありがとう、と握手を求めた。
かろうじてそれに応じ手を重ねたが、頭の中は靄がかかったようにぼんやりとしていて―――何が何だか判断が出来ない状態だった。

「お疲れ様、エイジ」
気がつけば対戦相手ももうジムから去っており。バトル・フィールドで一人力なく立ち尽くすオレに、ナギさんが声をかけてきた。
「すみません…せっかくナギさんに見ていただいたのに」
「何を謝る?いいバトルだったぞ」
軽くオレの肩を叩き、ナギさんはにこりと笑った。
それだけでもオレの胸はどきりと早鐘をうつ。…だからこそ、だからこそこの人の目の前で勝ちたかったのに。

ヒワマキジムリーダーのナギさん。オレが一番に尊敬する人。
女性ながらにバトルも凄腕で、おまけにホウエンのジムリーダーたちをまとめる重役にもついている。ヒワマキでもとても頼りにされている存在だ。
オレとは数歳しか変わらないけど、昔からオレはジムでナギさんが次々に挑戦者を打ちのめしていく姿を見て育って―――
オレはナギさんに憧れて鳥使いになったといっても過言じゃないほどだ。

「ドードリオは3つ頭があるポケモン。3つある頭のおかげで高度な作戦を練ることも出来るというが…そのせいで考えすぎ、うまく動けないこともある。
そういう事態を避けるために、トレーナーが上手く指示を出してやらないとな」
「あ…はい解りました」
さて、とドードリオを起こすためナギさんがその場に膝をつく。

…その瞬間、ふわりとした軽い匂いがオレの鼻についた。
(…香水?)
ナギさんがつけているのか。気づくか気づかないか程度の、本当に微量な匂いだ。
甘ったるくなく、はっきりと分かるような匂いじゃないのがナギさんらしい…そう思った瞬間、ふと数週間前のミキコとナギさんの会話を思い出した。



あれはナギさんがミキコにバトルの手ほどきをしていた時だったろうか。オレも少し離れた所からそれを見ていた。
「…ということだ、解ったか?」
「はい!…所でナギさん、香水つけてらっしゃいますか?何だかとてもいい香りがします」
「ああ…気づかれたか。あまり私はこういうのには詳しくはないんだが」
ミキコにそういわれ、ナギさんはポケットから何かを取り出した。
…薄青色の貝殻のような、変わった形の小瓶。それを、ナギさんは愛おし気に手のひらにのせた。
「でも、とても薄い香りじゃないですか?」
「ああ… 風をイメージしたそうだ。普通風に匂いなどないだろう?自然な感じがいいと思っていてな。…風は飄々としたものだ。予測不可能、いきなり現れる…
だが、その気まぐれさが私は好きなのかもしれないな。 この香水だけは、気に入っていてね」
“風”がいつも傍にいるようで―――。
その時のナギさんの顔といったら。本当に綺麗で、オレは数秒見惚れてしまった程だ。

…鳥使いでもあるナギさん。本当に、“風”が好きなんだな…そう、オレは思った。



ナギさんから“きずぐすり”を吹きかけられ、やっとドードリオが元気を取り戻す。よしよし、とナギさんがドードリオの背中を撫でた。
「しかし…ついこの間までドードーだったのに。すごく修行をつんでいるのだな、エイジ」
「は、はい!いつかはナギさんに勝てるように…!」
「ふふ、言ってくれるな。ではこれからひとつ手合わせといくか?」

オレが「はい」の返事を返す前に。
オレたちの立っていた壁の窓ががらりと開き、にゅっと手が伸びてきた。

「悪いが」
その手がナギさんの肩を叩き、そして顔があらわとなる。
「それは後からにしてもらえるかな、門弟くん」
あ、と思った瞬間には、ナギさんが「ミクリ!」と言葉を発していた。
「あなたまたジムを開けてきたのか!?」
「いやいや。今日は臨時休業だよ… シダケコンテストの審査員を頼まれて朝から行ってきたのでね」
その帰りにヒワマキに寄った、というわけだろう。

ナギさんと同じくジムリーダーをしている…ルネのミクリさん。そしてナギさんとは幼馴染だそうだが…
よくジムを開けているとかで(「リーダーともなると用も少なくなるのだよ」)ヒワマキ…もといヒワマキジムをたびたびこうして邪魔をしにくる人。
困ったものだ、とよくナギさんが愚痴をこぼしているのを知っている。
「もうお昼をとっくに過ぎているよ。ナギのことだ、まだ済ませてないのではないかと思ってね」
「確かにまだだが…」
「これから一緒にどうだい?ミナモのいつもの店。新しいメニューが入ったそうだ」
「…あなたは本当にそういうことには目敏いな」
「ナギのためならね」
「…全く…」
窓に肘をつき、うんざりとしているナギさんに構うことなく笑顔で話をしている。…それに、オレがカチン、とこないわけがなかった。
そんなオレの様子を知ってか知らずか、ミクリさんはああだこうだとナギさんを誘おうとそれでも話を続ける。
「…そうだな… エイジ、お前も行くか?」
「…いいえ、お二人でどうぞ。ナギさんがお帰りになるまでジムの留守を守っておりますので」
「そうだとも。悪いが今その店ではキャンペーンをしていてね…“カップル二人で”訪れるとデザートを無料で一品つけてくれるそうだ」
妙に一部分を強調し、だから、とミクリさんは言う。
ナギさんは何がカップルだ、と頬を少し赤くして眉をつりあげた。

微笑ましい図。前にミキコが二人を見て、そう言っているのを聞いたことがある。
“ミクリさんとナギさんってとてもお似合いよね、どちらもお綺麗だしバトルは強いし…お二人とも、私の理想だわ”
“お似合い?ナギさんはいっつもミクリさんに怒ってるじゃないか”
“エイジは子供よねー、そんな所でしか判断できないの?あのお二人はね、―――”
その後にミキコは何て言っていただろうか。それは忘れてしまったけれど…
でも、オレにとっては。

「だが今ミキコもジムを開けているし、やはり…」
「…いいえ!」
さえぎるように、大声を出してしまった。ナギさんも少し驚いたようにオレを見る。
「本当に大丈夫ですから。どうぞ、行ってきてください」
「そうか? …それでは少しジムを開けるとするか…用意をしてくる。 …ミクリもそんな所にいないで中で待っててくれ」
「ではお言葉に甘えて」
明らかに不機嫌な表情をしているであろうオレにもミクリさんはにっこりと笑みを浮かべる。
彼は窓からひょい、とジム内に入ってきた。

その時に彼と共に外から入ってきた、一陣の風。
それがジム内にさらりと流れ… ある、匂いがオレの鼻をくすぐった。

(香水?)
甘ったるくなく、爽やかな夏の風にも似たような自然に近い匂い―――先程、つい先程、かいだ匂いだ。
けれど、それはナギさんからじゃない。…発し源は、オレの隣に立っている―――

「…香水…」
「ん?香水?…ああ、私のかい?ミナモの店のものだよ。知り合いに頼んで特別に作らせたものでね。でも“彼女”はきつい香りが嫌いだろうから…
自然なものを作らせたんだよ」
「…もしかして、ナギさんに、ですか」
「ああ。お揃いでね…でもナギは香水なんてものを嫌うからきっと捨ててしまっただろうけれど」

私だけでも、とても言わんような言い方だった。
そして、“普段はもう少しはっきりした匂いのものをよくつけるのだが、”とミクリさんは続ける。
「この香りは好きなんだ。…この香水は、ナギをイメージして作らせたものだからね」
ナギがいつでも傍にいるような気持ちになる。

ミキコと会話をしていた時のナギさんの表情。そして、その時のミクリさんの表情。
それを重ねあわせた時、はっきりとオレの頭の中に以前ミキコが言っていた言葉が思い出されていた。


“あのお二人はね、お互いを心の奥で想いあってるのよ。目では見えないの。誰にも邪魔の出来ない、深い深い心の奥底でね”



誰にも邪魔は出来ない。
…途端、先程バトルで負けた時以上にぽっかりとした穴が――― 深い穴が、オレの胸にあいたような気がした。