「N様。お出で下さい」
玩具と戯れていた部屋の主―Nは、その言葉をにわかに聞き入れられる事が出来なかった。
年齢にしては不相応な程、Nは純粋だった。
まるで無菌室に入れられていたかのように、Nはこの世界のあらゆる悪や汚れと、無縁だった。幼子が持ち得る素直な感情を、Nはそのまま身に宿し続けていた。
「このドアには魔法がかけられているのです。このドアを開けて外に出てしまえば、あなたは消えてしまうのです」――繰り返し紡がれるそんな愚かな騙し文句を、Nはひたすら信じていた。
このドアをあけてそとにでたら、ぼくはきえてしまうんだ。そんなのいやだ。
鍵一つかけられていないドアを、Nは触れることすらなかった。
そんなドアが、今日また開かれた。そのドアを開くのは、決まってある男だった。開かれたドアからは後光が差し、Nは僅かに目を細めた。声には十分過ぎる程聞き覚えがあった。
“彼”だ。
外界より指しこむ眩しい光に姿が認識出来ずとも、Nは確信を持っていた。
「ここから出たら、ぼくは消えてしまうんでしょう?……」
「これまでは。しかし、それは今日で御終いです。貴男が埋もれる日は今日で終わりました。これからはあなた自身が、光となるのです」
Nにとってその男の言葉は魔法で、全てだった。
そうか、今日で終わりなのか。ぼくが消えてしまうことはもうないんだ。
差し出された手を、Nは素直に受け入れた。
初めて見る景色は、無機質な廊下だった。それでもNは少しの怯えと少しの好奇心を持って、ただ歩いていた。その手を、男はただ握り導いた。
――Nは目の前の壮年の男の名前を知っている。しかしNはその男を名前で呼ぶことなかった、Nにとってその男はある「代名詞」の意味を持っていたからだ。しかしNがその男を「代名詞」で呼ぼうとすると、男は嫌がった。言葉にして否定することはなかったが、その「代名詞」が口から言葉となって発せられることを酷く避けた。男はNにとって一番近い存在であった。Nは確かにそう感じていた。事実男は一日に何度もNを訪ねていたし、Nの良き話相手で相談相手であった。しかし男は、Nに確固な壁を作っていた。その壁が「主従」であると気づくには、Nは幼すぎた。ただ何処かぽっかりとした空虚感だけを、無意識に感じていた。
何処までも続くと思われた冷たい廊下が、急に終わりを告げた。ここは、研究室?……視界を覆う重い暗闇に、胸に迫り上ってくる不快感だけを感じ取っていた。ぼんやりとした明かりだけが暗闇の世界に浮かび上がっている。光の中では到底Nが今まで見たことのないようなポケモンのような「もの」が浮かんでいた―「あれ」をNは何処かで見たことがあった。少し逡巡をしてから、その「もの」は少し前に捨てた人形だと気付いた。腕がとれてしまって、捨ててしまった人形だ――その光景に「異様」さを感じられる程、Nは“普通の”神経を持ち合わせていなかった。故にNはそれを、ただ「もの」として認識して視界に入れていた。
と、ある光の前で男は立ち止った。
「N様。このポケモンが、あなたの御母堂です」
目の前の光の中に――透き通った水の中に、きつく目を閉じて浮かんでいる存在。長く波打った髪はライト・グリーンに輝き、小柄な体は満たされた水に全てを委ねている。小さなその存在は、何処か幼い少女のように見えた。
男はその存在を、ポケモンだと言った。しかしすぐに「ああ、違いますな」と継ぎ足した。
「今わたくしたちの時代ではポケモンという分類にわけられる存在。しかし古の時代、彼女はポケモンでもあり人間もでありました。どちらでもあり、どちらでもない存在だったのです」
「古の時代?……」
「ええ。万人を拒み、海底の奥深くに沈んでいた……碑文でしか伝えられることのない機密事項です。それがわたくしたちの時代に、今よみがえったのです。おお、何と素晴らしいことでしょう」
歓喜に震える男を、Nは見つめた。男の言葉を一つずつ飲み込んでいく毎に、頭の中の混乱が度を増していった。
ぼくは目の前の、“彼女”の子。つまりこの“ひと”は絵本で読んだ、ぼくのおかあさんという存在だ。常に傍にいて、ぼくを抱きしめてくれる存在。
それなのになぜ、この中に閉じ込められているのか?これではぼくを抱きしめてくれることなど出来ない。
Nは僅かに、後ずさった。
「ああ、じゃあ、ぼくは、人間なの? それとも、ポケモンなの?……」
「N様。貴男もまた、人間でもありポケモンでもある存在です」
男はただ事実のみを伝えるように、淡々と言葉を紡ぐ。Nの動揺を把握しながらも、しかし受け入れることなく突き放すように。
「貴男は彼女のお子なのですから。そして貴男は……かつて愛と勇気を持って世界を治めた、若き王の再来」
「王?……」
「そうです。貴男は王となられるのです。そして彷徨えるわたくしたちを解放の世界へと導き下さいませ」
男はNの前に跪いた。膝をついた反動で男が常に羽織っている不気味な外套が翻り、床に模様となって広がる。外套に描かれたシンメトリーの双眼が、Nをじっと見つめていた。
「解放の世界?……」
「世界は今、混沌の世界と成り果てております。何もかもが酷く曖昧で、灰色の中を人もポケモンも彷徨っている……その世界を解放し、白と黒に分けなくてはなりません。
そうです。混じり合うことは罪。人とポケモンを、分け隔てる。ポケモンを、人から解放しなくては」
「人から?……」
「ええ、ええ。貴男は愛を持っておられます。貴男は優しさを持っておられます。貴男の部屋に、幾度となく傷ついたポケモンたちが来訪されたでしょう。彼らは皆、人によって傷つけられた可哀相な存在。愚かなわたくしは彼らの言葉がわかりません。しかし聡明な貴男は聞こえたでしょう、彼らの悲痛な叫びが。彼らは何と?」
「痛い……悲しい……酷い……」
「ええ、ええそうです!そして彼らは、自分たちの言葉に耳を傾けてくださるN様に感謝したことでしょう! 人はポケモンたちの言葉を聞くことが出来ません。トレーナーとしてこき使い、耳をふさいでしまっているのです! しかし貴男は違う。そんな人間たちに真実を伝え、解放の世界へと導く存在となるのです」
何かが変わろうとしていることを、Nは感じていた。手足に大きな枷がつけられたように感じた。漠然とした不安が――その時の感情に、Nは名前を付けることは出来なかったが――Nを覆っていた。
重たいよ。助けて。
そんな言葉は喉の奥へと飲み込まれていった。今や目の前の男は期待と依存、未来をNに託していた。小さな体に全てを託そうとしている。あまりの重さにNが押し潰されそうになっていることを知りながら、されど笑っている。まるでそれでも構わないとでも言わんばかりに。いずれ訪れる必然の終焉を予測しながら、過程のみを少年に押し付けている。
――Nは目の前の壮年の男の名前を知っている。しかしNはその男を名前で呼ぶことなかった、Nにとってその男はある「代名詞」の意味を持っていたからだ。しかしNがその男を「代名詞」で呼ぼうとすると、男は嫌がった。
されども、震える身体を腕で抑えNが訴えた言葉は、
「……パパ」
「ゲーチスとお呼び下さい。王よ」
扉は閉じられた。
伸ばした手がとられることは、遂になかった。