それを見た“わたし”は、ヒ、とひきつった声を一つあげるのが精一杯だった。
不思議なもので、金切りの悲鳴はあがらなかった。本当の惨状を目にした時、人は叫ぶことなど出来ないという。もしくは、こみあげる酷い嘔吐感が声よりも先に喉を支配したからか――。
部屋に充満された死の臭いは“わたし”の鼻腔を直接刺激したし、床に満たされた赤い海は解放された扉から“わたし”の白のドレスを汚そうとしていた。「開けてはならない」と言われ渡された鍵が手から滑り落ちるのを、“わたし”は防ぐことが出来なかった。天井より吊るされた屍体によって、止め処なく滴る血――その生臭い水溜まりに鍵が落ち、とぷりと沈んでいく。鈍色の鍵が、赤く染まっていく。
このままでは鍵に血が…証拠が残ってしまう。ああ、早く鍵を拾わなければ。
そう考えなければならない最低限の思考さえ、部屋の惨状は“わたし”から奪っていった。
床を覆う血は調度鏡の役割をして、天井の惨劇をありありと映し出している。足のない屍体、手のない屍体、髪がごっそりと抜け落ちた屍体、腹の裂けた屍体…同じ屍体はない。
数十にも至るであろう乙女の屍体が、縄によってつるされギイギイと音をたてている。
今にして思えば、“わたし”は試されていたのだろう。仕組まれていたのだろう。そして“わたし”は好奇心に、彼の思惑に敗け、この部屋を視てしまった。
もう、後退りは出来ない。
足はまるで鎖をつけられたかのように重く、“わたし”を鉄床へと根付かせる。
「見てしまったんだね」
いつの間にか、背には夫が立っていた。
頬の血の気はすっかり失せていたし、“わたし”を睨む紅石の瞳は、暗い色を隠さない。“わたし”に求婚をしてきた、あの時分の煌めきはそこにはなかった。娼婦のように紅い唇が、ただニイと口角をあげた。
「あ、ああぁ、あな、た」
「ボクは」
“わたし”の脇をすり抜け、夫は部屋の中へと入った。
ぱちゃぱちゃと赤の海を進み(足はじっとりと赤に染まっていく)、天井からは赤の雨を受ける(頭、肩、頬にぽつぽつと滴っている)。
「集めなければならないんだ」
血に塗れ、夫は立ち止まった。部屋の最奥部、そこに黒い棺桶が見えた。
「愛しい彼女。ボクに愛され、万物に愛され、神に愛されたがゆえに天へと昇った彼女……。業炎に包まれ、何も残さずに逝ってしまった彼女。耐えられなかった」
夫の指先が徐に、棺桶の淵を撫ぜた。
その指先は滑るように動き、天井を指差す。
「――あれは、ルイーゼ。彼女とよく似た、手指先を持っていた。だから切りとった」
ルイーゼと呼ばれた屍体は10の指先が全て喪く、吊されていた。
「“それ”はレリア。隣“の”はアリア。双子だった。レリアは右足が、アリアは左足が彼女と似ていた。だから切りとった。ただ二人とも指先は下品なペディキュアをしていたから、いらなかったんだけれど。足指先は、カロリーヌの方が似ていた」
同じ顔をした双子はそれぞれ、片足を喪くし吊されていた。
「リュシーは鼻先が――マリーは髪質が――フローラは額が――オリヴィアは耳の形が」
夫の口からは、沢山の女性の名が出た。それらは全て、“わたし”の前に彼の妻だったであろう女性たちなのだろう――全てが、「何か」を喪くした屍体と成り果てていた。
それでは、その喪くした「何か」は何処へ?
それで、“わたし”はわかった。その棺桶の中には、もう一つの屍体があるのだと。
ただしそれは普通の屍体ではない、吊るされた数多くの屍体から一つずつ「何か」を切り接がれた、いわば出来損ないの人形――。
「しかし、ボクの眼力を持ってこれ程までに探し求めても、嗚呼、瞳だけが――彼女の碧い瞳だけが見つからない――もっと、もっと探さなければ、もっと、ねえ、そうだろう」
まるで縋るように、夫は棺桶に体を寄せる、愛しい伴侶を掻き抱くように――
「 サ
フ ァ イ
ア 」
極上の蜜がとろけるような、甘い囁き。
赤ん坊のような無邪気さと、屈折した性癖を露呈させる青年が混じりあう――眼前の夫は、そんな歪さを見せた。
それは数か月共に暮らしてきた妻であるはずの“わたし”が見たことのない、夫の表情だった。けれど“わたし”は既にわかっていた。
その表情こそが、夫の本来の姿なのだと。
(“わたし”は愛されていなかった)
夫が本当に愛していたのは、彼が今恍惚と見つめている棺桶の中にある――歩きもしない、微笑みかけもしない、喋りもしない、男の欲を解消することも出来ない――ツギハギの死体(もしくは、肢体)なのだ。人間としての理性、知性、常識、倫理、名誉、地位、財産。全てを擲つ価値が、その死体にはある。
妻としての嫉妬以上に、其れ程までに夫が愛した女がどのような乙女(ひと)だったのかが気になった……そう思ってしまったのは、“わたし”が恐怖のあまり気が狂ってしまったからなのか。
しかしそんな気の迷いは、すぐに晴れる。
“わたし”も間もなく、「何か」を喪って、この部屋に吊るされる。