「母さん! 生まれたんだって」
検診に来た医者と入れ違いになるように部屋に入ってきたのは、大きな麻籠だった。
籠が歩いている。ジャンタは一瞬ぎょっとしたが、その後ろから聞こえてきた聞き覚えのある声にすぐ平静心を取り戻した。
麻籠に積み上げられたアイントオーク名物の大きな果実が子どもの顔を見えなくさせていたが、ちらちらを見える特徴的な黒と白のシンメトリーの髪は見間違えようがない。ドレッド、と息子の名前を呼んでやれば、「ああごめんなさい、もっと大人しく入ってくるべきだったのに」と慌ててドアを(先程よりは幾分優しく、それでも興奮は隠しきれないようだった)閉めた。その衝撃で、ぽろぽろと麻籠から果実が零れ落ちた。
「それで母さん、赤ちゃんは何処にいるの」
「ドレッド、少しは落ち着きなさいな。……ほら、そこに」
ジャンタの隣の小さな寝台。柔らかな天蓋に覆われ、頂からポケモンの形をしたベッドメリーが――この形はビクティニ、アイントオークに住んでいると言われる幻のポケモンだ――がくるくると回っていた。天蓋を除け、恐る恐るドレッドが覗きこむと、母と同じ髪色をした赤ん坊が目を忙しなく瞬きさせて兄となる少年を見つめ返してきた。わあ、とドレッドが感嘆の声をあげる。
「な、名前は」
「カリータよ」
「カリータ…… 可愛いカリータ。僕の妹」
愛おしそうにふっくらとした頬を突くと、カリータは真ん丸の目を細め声をあげて笑った。兄の存在を受け入れ無邪気に笑う妹を目にして、ドレッドは破顔した。
「モーモントさんももうすぐ来るよ。さっき伝えたら、「もう生まれたのかい!?」ってわたわたして書類をかき集めてた」
「まあモーモントったら。今日が予定日なことは前から伝えてあったはずなのにそそっかしい男だねぇ」
「モーモントさんも忙しいんだよ。許してあげて」
慌てて取り繕い町長をかばうドレッドに、ジャンタは笑った。全くこんな幼い子どもにかばわれるなんて、モーモントも情けないったら。そう口撃すればきっとあの丸顔の幼馴染は更に慌てるだろうから、息子の顔に免じて許してやるけれども。
ドレッドは天蓋に覆われた寝台に横たわるカリータの小さな手を、ぎゅっと握りしめた。そしてぽつりと、独り言のように言葉を零す。
「……カリータは……あそこで生まれることが出来たら、もっと良かったのにね」
「ドレッド?」
「カリータが生まれるべきも、僕たちが本当に住むべきも、ここじゃあないんだ。そうだよね、母さん? ……ああ勿論、このアイントオークも僕の故郷だと思っている。でも、本当に僕たちが生きるべきは、」
ドレッドの視線が動く。その視線は開かれた窓。その窓の外には、大地の剣。ドレッドの意識は、その大地の剣を超えた所――大地の郷。
「ドレッド、あなた」
「いつかきっと、カリータを大地の郷へつれていってあげたい」
そう言って妹を見つめるドレッドの顔に、先程までの興奮は見られなかった。ただ、冷静だった。十にも満たない子どもとは思えない程、大人びていた。
この子は、いつからこんな顔をするようになったのか。
ドレッドが今よりもう少し幼い頃、確かに彼をつれて大地の郷へと赴いたことがある。けれどもけして、それは息子に重い運命を背負わせるためではなかった。自分たちが大地の民と呼ばれる一族の末裔であること、その事実をただ息子に知っておいてもらいたいだけだった。
けれどもドレッドは、息子は、自分が呟いたたった一言の郷愁の想いを今も覚えている。
あれ以来その想いを胸に秘め続け、そして燻らせ続けている。
(あたしがドレッドを、息子を変えてしまった)
幼い妹を抱く息子を、ジャンタは複雑な心持で見つめていた。
荒れ果てた荒野を、青年はただ進んでいた。
あの日、母の切なる願いを耳にし故郷の復興を願った少年は、今や何処にもいなかった。そこにいるのは、十年の月日を経て成長した一人の青年だった。がっしりとした体躯に強い意志を宿した切れ長の瞳。真っ直ぐと前を見据えたその目は、恐れを知らなかった。黒と白のシンメトリーの髪は肩まで伸びていたが、長く辛い旅路で無造作に跳ね潤いを失っていた。
今青年は乾いた大地を歩いていた。ギラギラと照りつける太陽は容赦等知らず、ただひたすらドレッドに降り注いでいる。頭から深く羽織った外套はその日差しを幾分か和らげてくれているものの、額から流れ落ちる汗はぬぐわれることもなく大地へ落ちていった。熱風と舞い上がる砂埃は、確実にドレッドの体力を蝕んでいた。
――暑い。そう言葉にする気力はなかった。酷暑を嘆く体力があれば、一歩でも先へ進まなければ。
このような厳しい土地に人が住む村があるなど到底信じられない。いくら先を見ても、うつるのは枯れ果てた木々とひび割れた大地ばかりだった。野生のポケモンすら姿が見えない。ゆらゆらと、陽炎が揺らめくばかりだ。
荒野に入る前補給した水分は、随分前に底をついてしまった。今日中に「大地の民が住んでいる」と噂に聞く荒野の村に辿り着かなければ、自身の命すら危ういだろう。けれどもその事実にドレッドは臆することはなかった。
必ず辿り着いてみせる。そして大地の郷へ戻るように説得をしなければ。
大地の郷は竜脈の恩恵を失くし、全てを失った。緑を失い、水源を失い、資源を失った今の大地の郷はこの荒野よりも生きるに値しない土地なのかもしれない。けれども、大地の民は帰らねばならないのだ。大地の民があの郷を離れ生きることなど、許されないのだ。ドレッドはそう信じていた。
大地の民の魂は、あの郷で生まれ没するのが運命(さだめ)。
各地で生きる大地の民は、その運命(さだめ)を理解しなければならない。そしてそれが、今のドレッドの運命(さだめ)だった。
ふと、ドレッドは目を細めた。
陽炎の中に、白い建物が見えた。……ゲルだ。印象的な幾何学模様もついている。その幾何学模様を、ドレッドも衣服に身に着けていた。誇り高い一族のみが身に着ける、古代の文様。
それは朦朧とする意識の中で見える幻か。願望が紡ぎだす、蜃気楼か――。
ドレッドは確かな足取りを持って、その景色へと歩き出した。