肌寒さを覚えふと顔をあげると、開かれていた窓から月が見えた。痩せ細った、黄とも赤とも言い表せない複雑な色合いをした下弦の月。霊(ゴースト)の口が曲線を描いて嗤っているかのようなそれを目にして、ギシンは驚いた。
何故昼間に、このように月がはっきりと見える?
そんな惚けたことを考えているうちに、ひゅうと風が吹き入りギシンの肌を撫でた。そこでやっと、すでに夜が更けていたことにギシンは気がついたのだった。

まるでそれを待っていたかのように、どっと疲れがギシンの全身に覆い被さる。サインを書き続けた手はいきなり痛くなってきたし、書類を見続けた目は乾いていた。肩もまるでイシツブテがのしかかっているかのように、ずっしり重い。目尻をほぐしながら、そういえば食事をしていないことも思い出した。最後に食べたのは、いつだ?兵は食事を運んできてくれたとは思うが、自分はそれを苛立ちながら跳ね返したような……よく、思い出せない。それほどに、今日の書類は一筋縄ではいかないものだった。整理がつくまで、これほどまでに時間がかかってしまった。
このような夜更けに再度兵たちに食事を持ってこさせるのも酷だ。せめて、喉の渇きだけでも癒しておこう――そう思い入った部屋には、すでに先客がいた。
それは偶然ではない。先客は、誰でもなくギシンその人を待っていた。

「ダモス……帰っていたのか」
「ご苦労だった、ギシン」
先客も多大な仕事をこなしてきたはずだが、それをおくびにも出さず朗らかな笑顔でギシンを迎えた。椅子から立ち上がった先客……ダモスは「さあ」とギシンを食卓へ招きよせ、半ば強引に椅子へと座らせた。そこには軽く用意された食事。どうせまた食事をしていないのだろう、とダモスはギシンへ皿をずいと差し出す。小さくひび割れた杯には、労いの酒が注がれた。
「今日は仕事が早く終わったのでな。今日も神殿にいられなくてすまなかった……本当に、お前には苦労をかける」
「構わぬ。それよりも早速だが、報告を頼もう」
「ああ」

神殿の者たちが寝静まった頃、こうしてダモスと二人話をするようになってどれくらい経つだろう。どちらが決めたわけでもなく、この評議を毎夜のように二人は行っていた。
二人は、指導者としての立場を持っていた。
かたやダモスは主に神殿の外で、畑を耕しながら民を見守る。かたやギシンは、神殿の中で兵たちを従え政を行う。差し当たりギシンはダモスの部下として在ったが、お互いが上下関係といった堅苦しさは持っていなかった。それはお互いが、街を護る者として欠けてはならない立場であり、なくてはならない存在だと尊敬しまた自負しているためだった。
“ダモス様は指導者としては高雅さが無さ過ぎる”“ギシン様は指導者としては調和性がなさ過ぎる”そう陰口を囁く者もいたが、結局の所ミチーナに居を構える多くの者たちが、等しく二人共を敬っていた。
そのためミチーナを支える双頭として、この時間はある意味義務となりつつあった。
しかし外と違って、中は変化に乏しい。ギシンは毎夜、当たり障りない内容をダモスに話していた。罪を犯した者を牢に入れたとかいうような、至極つまらない内容を。
かたや、ダモスは違った。何が記してあるのか、常に彼が持ち歩いている紙を見ながら毎夜ダモスは嬉しそうに報告をする。枯れていたはずの場所に突如水が湧き上がっただとか、諦めていた畑に今日突然芽が息吹いていただとか……まるで奇跡に近いことを、笑顔で話す。そしてダモスは、常にこう締めるのだ。

「全ては、アルセウスのおかげだ――」

そう報告するダモスの顔は、とても穏やかだ。ギシンは毎夜それを見ていた。「そうだな」とも、「それは違う」とも言わない。それを判断するのは、自分ではないことを重々承知しているからだ。
実際、ダモスの足元に置かれた麻籠には、民から献上された作物が積まれていた。そして、ギシンの前に用意されていた食事も収穫された作物から作られたものである。奇跡は絵空事ではなく、こうしてギシンの見える所にも確かに存在していた。
「ほら。これも今日収穫されたものだ」
麻籠から放り投げられた果物は、まるで宝玉のように赤々と光輝いている。熟すことなく萎みきり、瑞々しさとは無縁の果物しか出来なかった数年前のミチーナからは考えられない、豊かさの象徴とも言える大地の恵み。
ギシンがそれを一口齧ると、口腔内に芳しい香りと滑らかな果肉が広がった。

「民は皆元気だ。働いてくれている者たちの顔は皆、生き生きとしている。このままいけば、少しずつだがミチーナは更に栄えることが出来るだろう」
「それは何よりだ」
「アルセウスに、宝玉をお返し出来る日も近い」

ぎり。目が、痛む。

眉間を解しながら、ギシンはダモスから視線を逸らした。ダモスは、気がつかない。
「それにしても、ギシン……あれは、どうにかならないのか」
「あれとは?」
「魔獣たちがつけている、装具のことだ」
ダモスの口から重々しく出た言葉に、またその話題か――と溜息をつかざるをえない。
「久しぶりに神殿にあがってきて、またあれをつけている魔獣たちが増えているように感じた……」
「ダモス。何度も言っているが、魔獣たちの統率のためにあれは必要不可欠なものだ。魔獣とは本来、危険な生き物。実際、装具をつけていない魔獣に襲われて怪我をした者もいる……我らと共存するために、仕方のないものだ。優しいお前には耐えられないものかもしれないが」
「しかし……」
「ダモス! そのことについては、お前は口を出さぬと決めただろう!」
食い下がるダモスに、思わず口調を荒げる。裂帛の声に、視線を向けた先の男は未だ何か言いたげではあったが、軽く俯いた後「そうだったな」、と小さく呟いた。
「このミチーナの歩み方を考えるのがお前。そして、このミチーナが現在どう在るべきかを考えるのが私。そう決めたはずだ。どちらが欠けてもいけない、両方があってこそミチーナの栄華が保たれるのだと……」
「ああ……お前と私。二人でこのミチーナを支えていこうと決めたのだからな……」
「覚えていたか」
「忘れるわけがないだろう。このミチーナがまだ荒地だった頃から、私とお前で約束したことなのだから」

(それならば何故)

このミチーナが不毛の地であるという絶望を、屈辱を、共に味わったはずなのに。何の木も花も育たない、枯地に強いという作物さえ実ることはなかったこのミチーナを、いずれ栄えある豊饒の地にしようと誓い合ったはずなのに。
それが叶った今、どうしてお前はそのような選択をしようとしている?
(あのような魔獣一匹に、気を奪われるとは)
突然舞い降りた魔獣、装具をつけるなどと考えることすら出来ないほどに、鋭くまた荘厳な霊気を抱く魔獣。その魔獣――アルセウスが、神にも等しい存在であることはすぐにわかった。何千年かかろうとも死せる大地であり続けたであろうこのミチーナを、わずか数年で生命が息吹く地へと変えた。灰色が一瞬にして金色になる瞬間を、生涯人は忘れはしないだろう。
それだけならば、多大な感謝と畏怖の念を持ってアルセウスを崇めれば良いだけだった。それなのに、神は残酷な判断を人間に迫った。このミチーナを、また死の大地へと戻すような選択を迫った……

神は人間に、ただ一瞬の夢を気まぐれで見せてやろうと思っただけなのか?

ダモスに「考え直せ」と無様に縋りたい気持ちを、何とかおさえている。
わかっているからだ、そんなことをしても目の前にいる純朴な男には無意味であることを。あの魔獣との約束を、このミチーナの存続以上に重んじている。
自分は狡猾だと罵られる程に、利口だと自負している。ミチーナの頭脳として、自分以上の者は空前絶後だろう。それはただの自惚れではない。それに見合うだけの故郷への愛情があるから、そのような自信を持つことが出来るのだと考えている。
しかしそれが通用しないほどに、ダモスは無垢だった。以前はそれすら「奴らしい」と微笑ましく見られたが、今となっては。

(いいだろう。私はお前に、何を望むこともない)

(お前自身には、な)

傍に控える魔獣に手を添えれば、甘えるようにドータクンは身を寄せてきた。

もうすぐ、もうすぐだ。月が隠れる夜まで、あともう少し。

お前に私の言葉が届かないのならば、お前にも“同じ状態”になってもらえばいい。敬愛する神に、お前自身の手で私の怒りを届けるがいい。
その時の神の絶望の表情を、私は眼下で恍惚と眺めることになろう。


神が死ぬことで、このミチーナは永遠となる。


(私はこのミチーナを愛している。誰よりもだ)